黙らないための時々雑記 2015

沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、続けよう。

     (ベケット「名づけえぬもの」安藤元雄訳より))


*****************************************************************************************************

2015年7月29日(水)【緊急!日大関係者へ署名と拡散のお願い】

本日、私の職場でも以下のサイトが立ち上がりました。
私も呼びかけ人のひとりです。
職員も学生、院生、卒業生も署名できます。
関係者への拡散もよろしくお願いします。


安保関連法案廃案を求める日本大学教員の会

http://nuantisecbill.wix.com/antisec

「私たち日本大学教員の研究分野はさまざまで,
日本の安全保障・憲法に対する考え方も一致するわけではありませんが,
学問的真理を追究するという姿勢は共有されています。
その観点から,憲法違反の疑いがあるうえ適用基準が曖昧で
ときどきの政権の恣意性を許容する法案を不適切と考えます。
また未来の社会を担うべき学生の教育に携わる者として,
今後日本国が国際的武力紛争そして戦争に
積極的かつ無際限に加担してゆく可能性を開く法案を不適切と考えます。
 ここに私たちは安全保障関連法案を徹底的に審議したうえで,
廃案とすることを求めます」


2015年7月28日(火)【砂袋】

老いるとはどういうことかを実感させるために、
学校では生徒に砂袋を引きずって歩かせるという。

暑さのせいもあって、
私もいよいよ自分の身体をもてあまし、
砂袋のように感じるようになった。
それにしても、一歩外に出れば、
私以上に重そうな砂袋を引きずって歩いている人がなんと多いことか。
いったいなんのために?
おそらく私同様、その理由を探すために……?


2015年7月25日(土)【お知らせ】

戦争をさせない1000人委員会
【明日から3日間連続!行動予定です】
7月26日(日)14時~:.包囲行動@周辺
7月27日(月)12時〜:戦争法案の廃案を要求する.27緊急行動@参院議員会館前
7月28日(火)18時30分~:強行採決許すな!戦争法案廃案へ!.28大集会@日比谷野音



2015年7月19日(日)【お客様】

それでもときにNHKのニュース番組を見ることがある。
そしてたいてい恥ずかしくなる。
この国に金もうけ以外何ひとつ理想がなくなったことを
思い知らされるからである。
こんなことになったのはいつからだろう?
以前NHKニュースで見ていた日本は
もう少し高尚だったような気がする。
過去を直視する勇気も持っていたし、
戦争中大きな被害を与えた国の人々に
当然の申し訳なさと恥ずかしさを感じてもいた。
それがいつのまにか、
まぎれもない恥知らずになってしまったのだ。
平和や民主主義の理想もかなぐり捨て、
今日本にかろうじて残っているのは、
外国人に少しでもたくさん物を売りつけるための
商業道徳だけのようだ。
いや、あれは断じて「道徳」などではない。
日本の商人たちは、もみ手して外人観光客を迎えながら、
一方で、その「お客様」の国に
平然と武器を向けようとしているのだから。
かつてのあの時代のように。


2015年7月17日(金)【みんなの幸い】

戦争法案が衆院で強行採決された。

下の少年のようなすみわたったひたむきさと
内なる真摯な対話の相手を持った人が、
議会の内と外にもう少し大勢いれば、
こんなことには決してならなかっただろう。
しかし絶望するわけにはいかない。
ぼんやりとでも希望に気づいた人に、
絶望する権利はない。
「僕たちしっかりやろうねえ」と
互いに励まし合うだけである。
100年近く前にそれに気づいた
宮沢賢治の美しい少年対話者のように。


「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、
どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうに
みんなの幸いのためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
「うん、僕だってそうだ。」カムパネルラの眼には、
きれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう?」ジョバンニがいいました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが
胸いっぱい新しい力が湧くように
ふうと息をしながら云いました。
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より) 


2015年7月14日(火)【ご案内:映画ジョン・ラ―べ】

これも友人から、
何年も前にネット上で予告編は見ているが、
日本ではめったに見られない映画の
案内をもらった。
ご紹介しておこう。

ジョン・ラーベ 南京のシンドラー

http://www.johnjoei.com/

7月20日(月・祝)竹橋 日本教育会館 一ツ橋ホール


2015年7月12日(日)【ご案内 戦争法案反対の行動予定】

東京新聞によれば、
10日金曜の大学生グループ「SEALDs]らの国会前抗議には
過去最高の1万5千人が集まったという。
若い人たちも本気で動きだしている。

戦争法案反対、
今後のめぼしい行動予定は以下のとおり。
○毎週木曜は国会前連続行動。18時半~19時半 衆議院議員会館前集合
○7月14日(火)18時半 日比谷野外音楽堂集会とデモ
○7月26日(日)14時 国会包囲行動・全国一斉総がかり行動
○7月28日(火)18時半 日比谷野外音楽堂集会とデモ

総がかり行動実行委員会
http://sogakari.com/


2015年7月11日(土)【意思と行動】

もともと夏には弱いたちだが、今年は一段と低調だ。
体力が日々落ちていく感じがする。
朝起きてニンジンジュースを作ったり
ちょっと買物に出たりするにも、
相当の気力をふるい起こさなければならなくなった。
いつまで自分の意思どおりに身体を動かすことができるか、
これからが正念場だ。

6月半ばに、手製のプラカードを自宅の塀に掛けた記事を紹介したが、
最近、友人から
澤地久枝氏が7月18日の午後一時に
同じポスターを全国一斉に貼ろうと呼びかけているという話を聞いた。
「アベ政治を許さない」という文面だ。
参考までにご紹介しておこう。
私もこの文面にするかどうかは未定だが、
一斉ポスター貼りには改めて参加しようと思う。
ニンジンジュースを作るよりも、ずっと簡単なことだ。

https://sites.google.com/site/hisaesawachi/


2015年7月7日(火)【「戦争する国」へすすむ安全保障関連法案に反対する署名】

考えて見れば単純なことだ。
戦争で国民は守れない。
「餓死した英霊たち」140万人を含む230万人の戦没者も
沖縄戦の犠牲者も、
広島、長崎の原爆犠牲者、
東京大空襲の犠牲者も、
日本が戦争を起こさなければ
みな死なずに済んだのだ。
そしてアジアの千万人を越えるといわれる被害者も。
若い人の中には、
戦争で国を守れると素朴に思いこんでいる人が少なくない。
このことを教えてあげたい。
「国を守る」とはいったい、
何を守るのか?
あなたや家族の生命さえ守れないのに。

「安全保障関連法案に反対する学者の会」が、
学者市民の賛同者を募集中です。まだの方はぜひ!

「「戦争する国」へすすむ安全保障関連法案に反対します 」

http://anti-security-related-bill.jp/


2015年7月4日(土)【#首相官邸を包囲せよ】

ツイッターで下の記事のURLを拾った。
一読に値する。ご紹介しておこう。

安保法制と、「#首相官邸を包囲せよ」の意味
議会主義の軽視に対抗する試みとして 五野井郁夫

「止めるなんてとうてい無理だ」と思い込まされている人も
いるかも知れない。
けれども、実際この70年もの間、
日本が戦争の惨禍に巻き込まれないよう幾度となく止めてきたのは、
他でもない我々日本国民自身なのだ。」

http://webronza.asahi.com/politics/articles/2015052500005.html

 7月24日の金曜日の夜には、
安倍政権から民主主義を取り戻すために、
首相官邸を皆で取り囲む大規模抗議が企画
中だという。


2015年7月2日(木)【祈り(3)】

これも前に書いた。
こんな名言がある
「人生は後ろ向きに列車に乗っているようなものだ。
過ぎてからすべてが見える」
私もこれまで人生のさまざまな分かれ道で、
どっちへ行くかを選び続け、
後になって、こんなことなら
どうしてあっちにしなかったのか、
ほんの少し想像力を働かせれば
あのときわかったはずなのにと、
後悔のほぞをかんだことも少なくない。
しかしろくに想像もせず、
前方を見ないまま突っ込んでいったからこそ
面白かったのだともいえるし、
だからこそ人生が可能だったのだともいえる。
どうせ完全に前方を想像しつくすことなど不可能なのだし、
あっちの道を行っていれば、
なぜこっちに行かなかったかと
後悔したに違いないのだ。
個人の人生についてはたしかにそういえる。
しかし、国の政策についてはこれではすまない。
後ろ向きの運転手が運転する列車の驀進は、
なんとしても乗客がこぞって止めなければならない。
少し、ほんの少し、想像力を働かせるだけで、
前方に断崖絶壁と
そこをさ迷う無数のしんちゃんの亡霊が
見えてくるではないか。
周知の通り、
この国策列車はもと来た道をそのまま走り直しているのだから。


2015年6月28日(日)【祈り(2)】

私の寝床の二メートルほどむこうに本棚がある。
ちょうど目の高さのあたりに
藤原彰氏の『餓死した英霊たち』の背表紙があって
とても目立っている。
最近、母の親しかった従兄「しんちゃん」が戦没したのは
フィリピンのルソン島だったと叔母から聞いた。
『餓死した英霊たち』によればフィリピンには
61万の兵力が投入され、その8割が戦没、
そのまた7,8割がマラリヤや栄養失調による病没だったという。
どんなに健康で元気いっぱいの若者でも、
食糧も与えられずに炎天下を行軍させられ、
蚊にさされつづければ、
長くはもちこたえらえない。
若くハンサムな女学校教員だったというしんちゃんは
こうして亡くなったのだろう。
叔母によれば、彼の授業中の口癖は
「人間は生まれて食って産んで死ぬ」
だったという。
しかし彼は最後は
「食う」ことも、まして「産む」こともかなわず、
70年後の今も
私の幻の炎天の中を
痩せ衰えてさ迷っている。
どんなに苦しかったことだろう。
輝くように健康で元気だった若者たちを140万人!!!も
こうしてむざむざ餓死させた日本。
「一体何人殺せば作戦科は気がすむのか」
と大本営の作戦に激怒していた将校もいたという。
そんな国に二度と戦争をさせてはならない。


2015年6月26日(金)【祈り】

母の認知症が露わになってそろそろ5年、
2年目はまだ私と一緒に自分の昔の短歌を読んでいいものを選び、
ささやかな歌集を編んだりすることができた。
けれども3年目には漢字がだんだん読めなくなり、
4年目には平仮名も危うくなって、私たち娘の名前も、
まったくわからなくなってしまった。
しかし、私たちとの強いつながりはよくわかっている。
最近しょっちゅう泊まりに来てくれる姉が見当たらなくなると、
「あの人たちどうしたんだろうね?」
などとなぜか複数形で言い、
「明日また来るよ」と答えると、
ほんとうに嬉しそうな、ほっとした様子になる。
二人より三人の家のほうがずっとにぎやかだ。
私が癌にかかっていることも伝えると、
ちゃんとわかって、「あんたもたいへんだね」と慰めてくれた。
しかし、ここ数年の口癖は変わらない。
「私はこのごろおかしい、本当に馬鹿になったよ」
もちろん私は言う。
「だいじょうぶ、お母さんはみんなわかってるじゃない」
最近、本当に改めてそのことがわかった。
寝支度を手伝って母が床についた後、
何かの用で急に部屋の戸を開けると、
母は決まって胸の上で合掌して一心に祈っているのだ。
私の退院後に始まったことだ。
充分にわかっていないのは、むしろ私のほうだったのだ。
日々、言葉が失われていくのを知りながら、
なす術もなく、母が立っている暗闇の断崖。
私の何倍も深く、暗い、断崖の上にひとり立つ母のために、
私はこれまで手を合わせて祈ったことがなかった。
その対象が神仏であるにせよ、自然の力であるにせよ。


2015年6月24日(水)【戦争法案反対】

【拡散希望】
『とめよう!戦争法案 集まろう!
国会へ6・24国会包囲行動
』6時半~ 
14日は2万5千人集まりました!
24日は更に宣伝して、大勢で包囲しよう!
ツイートボタンで拡散を!詳細は→
http://sogakari.com/?p=342

【拡散希望】戦争法案反対!木曜日国会前行動に集まろう!
さあ、集まろう!さあ、声をあげよう!参加者増やそう!
『戦争法案反対国会前集会』木曜行動、
第6回 25日 夜6時30分~
 衆議院第二議員会館前 ツイートボタンで拡散を!→
http://sogakari.com/?p=361


2015年6月23日(火)【死と乙女(2) 針の目】

おのれの内なるふたつの欲望、死神と乙女の、死と生の欲望は
いうまでもなく
私自身を構成する究極の矛盾・対立だ。
しかし、これもいうまでもなく、
もっと日常的次元の矛盾対立もいくらでもあり
それが私の日々の在り方を構成している。
たとえば最近は、夏ミカン。
先日、国立駅前の無農薬八百屋で
近頃どこにも売っていない夏ミカンを見つけ、
無性に食べたくなって2個も衝動買いした。
店主が大げさに眉をひそめて
「酸っぱいですよ」と警告してくれたのだが、
食べてみるとその酸っぱさが正にちょうどよく、
いくらでも食べられる。
柑橘類は癌への抵抗力を高めるそうだから、
身体が今では失われたミカンの酸っぱさを
ちょうど欲していたのかもしれない。
しかし一方で、柑橘類は身体を冷やす食品だという。
そして私が今、一番警戒すべきは
身体の内と外を冷やすことなのだ。
典型的なあっちを立てればこっちが立たずのジレンマである。
あと、これも別な友人が親切に教えてくれたのだが、
開腹手術後は腸閉塞になりやすく、
それを避けるにはやはり食物に気をつけないといけない。
私も術後は腸閉塞を警戒して、
便秘になりにくい食事を心がけてきたが、
勧められて調べてみると、なんと便秘に効く食品の多くは、
腸閉塞を起こしやすいのである。
いやはや、こうしたジレンマ群をさばいて生き延びていくのは
ラクダが針の目を抜けるように難しそうだ。
しかしどうにかなるだろうし、どうにかしなければ。
私の内なる乙女もそういっている。
そのためには、私のこれまで慣れ親しんだ領域から、
もうひとつの、
あまりにも経験の乏しい領域に入らなければならない。
そう、内なる乙女の声に従い、自分の身体の直感と欲望に従っていくのだ。
そうすれば、もしかしたら
死にかけたラクダも針の目を抜けられるかもしれない。


2015年6月21日(日)【死と乙女】

ピアニストの友人から
シューベルトの弦楽四重奏曲『死と乙女』のCDをいただいた。
エルサレム弦楽四重奏団のサイン入りの名盤だ。
実はこの曲は、
大学4年で私が最初に買った「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」と
同じレコードに入っていた思い出深いものだ。
その後ステレオコンポからレコード・プレイヤーが消えるとともに、
お蔵入りにしてしまったが、
20数年ぶりにこのCDで聞くと涙が出るほど懐かしい。
思いついて元の歌曲の歌詞のほうも探してみた。
これもいかにもシューベルトの好みらしく、これ以上ないほどの直球だ。

http://www.geocities.jp/lune_monogatari/deathmaiden.htmlより
Matthias Claudius, 1740-1815
マティアス・クラウディウス 作詞

《直訳》
(乙女)
ああ あっちへ あっちへ行って
野蛮な死神よ
わたしはまだ若いのよ だからおまえは行って
わたしに触れないで!

(死)
美しく繊細な創造物であるおまえよ 手をお出し
わたしはおまえの友だちであって 罰するために来たのではない
機嫌をお直し! わたしは乱暴ではない
わたしの腕のなかで穏やかにねむりなさい


「魔王」を作曲した10代から31歳で亡くなるまで、
シューベルトは内に躍動する若い生命を死から守ろうと馬を走らせ続けた。
その死が乱暴な暴力であろうと、穏やかな安らぎであろうと。
彼の音楽が永遠にみずみずしく若々しいのは、
若くして亡くなったせいというよりも
追手から逃れることの不可能なあのレースにかけた
あきらめを知らないひたむきさゆえだろう。
40数年前、私の内にいたはずの「乙女」は、今もまだいるだろうか。


2015年6月18日(木)【謎と解(9)剥がされないポスター】

先日、ここで家の塀に掛けたプラカード「9条を壊すな」をご紹介したら
友人から嬉しい反響がいくつもあった。
ある人は私のささやかなプラカードの何倍もあるポスターを
家の塀にどーんと掛けたそうだし、
ある人は交通量の多い通りに面したガレージの車のフロントガラスに
デモ会場で入手した真っ赤な大きなポスターを貼ったそうだし、
その人の友人は、車の車体ににそのポスターを貼って
あちこち走り回っているという。
一日に10人通るかどうかという静かな通りに掛けた
私のささやかなプラカードなど全く顔負けだ。
しかし、こういう嬉しい話を聞きながらふとこう思った。
戦前、戦中の重苦しい時代には、こんなポスターなど、
どこの町内にも、一枚も無かったはずだし、
貼ったとたんにはがされ、「非国民」認定されたにちがいない。
だとすれば、私たちのこの時代は、まだそう捨てたものではない。
まだ間に合うかもしれない。
そう、全国のそれぞれの町内にたとえ一枚でも、
戦争反対のポスターが剥がされずに貼ってあれば、
それは「町内」の人々みなの無言の賛同、
少なくとも黙認を意味するといえるのだ。
なんと心強いことだろう。
そして、もしかしたら、その無言の人々にとっても、
どんなに小さくても、大きくても、
その一枚のポスターは、
今の私たちが戦前戦中とはどこか違ってきたことの
心強い証となっているかもしれないのだ。


2015年6月15日(月)【謎と解(8)ニンジン・ジュース】

14日、日曜の「とめよう戦争法案」国会包囲には、
主催者発表で2万5千人が集まったという。
参加してくださったすべての方への感謝の気持ちでいっぱいだ。
自分が参加できなかったことには疚しさが残るが、
体力温存のためには仕方がない。
前回の手術でリンパ節の癌を取りきれず、
抗がん剤も私の場合、たいした効果は期待できないというので、
痛みは残っているものの、化学療法はきっぱり断念して、
自力で免疫力アップを図っていくことにした。
病院には時々行って経過観察してもらうが、
主体はもはや病院でなく私。
癌と共存を図れるかどうかは、
私自身にかかっているのだ。
不思議なもので、病院まかせを脱することに決めたら、
急に元気がでてきた。
家族や友人からも暖かい励ましやアドバイスや
免疫アップ本やレシピをいただき、
目下免疫アップ大作戦実施中だ。
いちばん嬉しかったのは、二人の医師から、
とにかくやりたいことをやり、
やりたくないことをやらず、
食べたいものを食べるとよいとの
アドバイスをもらったことだ。
転地療法も良いという。
おお~という感じだ。
これこそ長年夢見てきた暮らしではないか……
仕事もどうせまだ無理なので欠勤しているし、
癌のお陰で一挙に夢の暮らしに突入できているようなのだ。
ここ数週間、毎朝6時に起きて、
手製のニンジン・ジュースを飲んでいる。
やはり末期の卵巣ガンから生還した姉の知人が愛飲したという
ニンジン・リンゴ・レモンを混ぜたジュースだ。
不思議なことにいくら飲んでも飲み足りない、
さわやかな味だ。
ようやく自分の人生を取り返したような……


2015年6月13日(土)【謎と解(7)とめよう!戦争法案

先日、わが家の塀にプラカードを掛けた。
考えてみれば、
これを思いつき、実行するまでに、
なんと64年もかかっていた。
何が怖かったのだろう?
ご近所にどう思われるか?
70年前のようにご近所のみんなといっしょに
「とんとんとんからりんと隣組」になって
若者を戦場に送り出すほうが
ましだったとでもいうのか?

やって見れば、あっけないほど簡単だった。
必要なのはセロテープと紐、そして
塀の外へひとまたぎする勇気だけ。



再再掲 【とめよう!戦争法案 集まろう!国会へ】6.14行動
6月14日(日)14:00~15:30@国会議事堂周辺/
主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会


2015年6月10日(木)【謎と解(6)とめよう!戦争法案

残雪の小説を丹念に読むと、いやでも気づくことがふたつある。
ひとつは、
彼女の小説世界の謎がなかなか解けないのは、
読者ばかりでなく、
主人公(多くの場合「わたし」)もだということだ。
もうひとつは
その世界の謎を解くために、
主人公の「わたし」が必ず、なにかの行動を起こすことだ。
行動しなければ、何もわからない。
やってみなければ何もわからない。
もちろん、やってみても完全な解にたどりつけるわけではない。
しかし次の行動のためのヒントは得られる。
そう、行動とは次のヒントを得るためのものなのだ。
一度行動して、一挙全面解決の解が出るほど、
事態は甘くない。
なにしろ、
私たちが向き合っているのは、
結局は残雪が描きつづけてきた
この複雑極まりない世界なのだから。

再掲 【とめよう!戦争法案 集まろう!国会へ】6.14行動
6月14日(日)14:00~15:30@国会議事堂周辺/
主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会

2015年6月9日(火)【
謎と解(5)とめよう!戦争法案

戦争法案はどうすれば止められるか?
国会包囲はこの問いに答えようとする試みのひとつでしょう。
行ける方はぜひこちらへ! 
他の、もっといい試みがある方は、もちろんそちらへ!
どこへも行けない方は、せめて拡散、勧誘を!
私はわが家の塀に
「戦争法案反対」の小さなプラカードを掛ける予定です。

【とめよう!戦争法案 集まろう!国会へ】6.14行動
6月14日(日)14:00~15:30@国会議事堂周辺/
主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
2015年6月8日(月)【謎と解(4)】

「その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省」
http://www.asahi.com/articles/ASH685CJLH68UTIL01W.html?iref=comtop_6_01

文科省はついに、
「学問」と「学問の府」は、日本には無用だと結論したらしい。

「学問」……「問」を目的語とすれば、
「問うを学ぶ」ということだ。
日本にも一時は学生がそれなりに
問うことを学んでいた時期もあった。
人文系の学生たちのみならず、社会経済系や理系の学生も
諸外国とと引き比べながら、
この国とそこに住む人々が、
よりよい国と世界を作るために、
何を、どのように問うべきかを、
懸命に学ぼうとした時期があった。
国家の主人として大きく問題を立て、
それに答えようとしてきたのだ。
その「学問の府」が道半ばで、
がらがらと崩れ始めたのはいつごろからだったろう?
大きな物語とともに大きな志も滅び、
若い人たちは、ひたすら日本株式会社の優秀な従業員、
世界の既存の経済システムの従順な奴隷となることのみを目指す。
システムそのものを問うことも、
この国の在り方を問うことも、
自分の在り方を問うことも、
彼らはもはや学んではいない。
もちろん、こういう根源の問いに答えを出すのは、
容易なことではない。
しかしだからこそ、学ぶに値することなのではなかったか?
文科省がすべての大学を職業訓練所にしようとしている今、
若い人たちも教員も、もう一度、自ら問うことを学び直し、
「学問の府」を自力で再興するしかない。


2015年6月6日(土)【謎と解(3)】

そうはいうものの、私の内に
私の知らない大賢人が住んでいるのもたしからしい。

仕事がら、400字詰め原稿用紙で50枚前後の文章を何篇も書いてきた。
「学術界」では「論文」と呼ばないと雑誌に載せにくいので、
とりあえず「論文」ということにして発表することが多い。
人文科学の「論文」がどうあるべきか、
私に未だに答えは出ておらず、毎度実験段階なのだが
それはともかくとして、
毎度不思議なことがある。
私は論文の冒頭部分を執拗に書きなおすことが多い。
最初から何かを論じて明らかにしたいと思っているものの、
自分の書き始めた文がどうも物足りなかったり、
見当違いのような気がしたりするのだ。
そんなわけで冒頭部分を幾度となく書きなおす。
ときには30遍も50遍も書き直し、
古いファイルには日付を振って残しておく。
不思議なのは、締切近くなって
最終稿をまとめ始めてみると、
ほとんど毎度、最初に書いた文章にもどっている。
なんのことはない、ろくに考えもしないうちに、
書くべきことはわかっていたのだ。
少なくとも私にとって、論ずるということは
最初の直観を幾度も幾度も否定したあげく、
結局は、そこにもどるだけのプロセスのようだ。
思えば老子は
「大巧は拙なるが如し、大弁は訥なるが如し」
といっていた。
そういえば「大賢は大愚の如し」という諺もある。
どうやら
私の論理思惟を司るこざかしい愚人は、
私の内深く住まうあの大賢人をてんから信用していないらしい。
こうして私は、自分が最初から知っていたことを、
改めてそれと「わかる」ために思考しつづける。


2015年6月2日(火)【謎と解(2)】

たいていの読者は残雪の小説を最初に読んだとき、
それが謎だらけなのに気づく。
単に謎めいているというのではなく、
謎そのものに満ちていると感じるのだ。
しかし、その謎の答えがにわかにはわからない。
もう一度、あるいは二度三度と読み返して見ても、
やはりわからない。
そこに謎があるのに自分に解けないというのは、いかにも悔しい。
そこで、
○自分を含め、大半の読者にその謎が解けないのは、
作者がわざと難しくしているか、
あるいは表現技法や構成、論理に問題があって、
要するに下手くそなのではないかと考えてみる。
あるいは、
○謎があるはずだというのが自分の単なる思いこみに過ぎず、
実は謎などなにもなく、もっと気楽に軽やかに、
「言葉と戯れればそれでいい」のだと考えてみる。
さもなければ、
○自分がたまたま思いついたそれらしい答えをふりかざし、
同じ作者の他の謎との整合性などものともせず、
個々の読者の読み方が違うのは当然だと開き直り
とりあえず全部わかったことにしてみる。

訳者の私の中でも初めはそんな考えが入り混じり、せめぎ合っていた。
しかし読めば読むほど、ある重大なことに気づくようになった。
「問いが立てられる以上、それに答えることは可能」であるとしても
その答えは、毎度、そんなに簡単に出せるものなのか?
自分は、どんな問いでも謎でも二、三度読んだだけで、
すぐに答えを出せるほど賢いのか?
もしかしたら、多くの謎は、
自分が予想した何倍も何十倍も何百倍もの時間、
ひょっとしたら一生をかけなければ、
解けないのではないか。

この時間の問題に気づき、
もしかしたら自分は、思っていたよりずっと愚かなのではないか
と気づいたとき、
私は残雪の、あるいは文学の
恐ろしさと底知れない魅力に初めて気づいたような気がする。



2015年5月31日(日)【謎と解】

まず下の物語をお読みいただきたい。

黒い帽子を目深にかぶり、黒いコートにすっぽり身を包んだ男がひとり、
月も星もなければ、街灯も家の灯りひとつない田舎の細道を歩いている。
そこへむこうから真っ黒な乗用車が
ヘッドライトもつけずに、音もなく猛スピードで走ってくる。
あぶない!!!
しかし車は男にかすり傷ひとつ負わせることなく、
猛スピードのまま静かに通り過ぎていった。
……

こういう話を中学の学習雑誌の付録読み物で読んだ覚えがある。
これは謎々で、ちゃんと解があった。

そう、月も星も家の灯りも無い代わりに、太陽が照っており、
時は真昼だったのだ。
人は自分の思いこみに、なんと簡単に騙されることか。
そういう話でもある。

しかし、かりにこれを謎々と気づかずに読んだら、
どうなるだろう。
不条理劇になったり、
社会批評になったり、
心理劇になったり、
あるいは文字通りこのまま読むのがいちばんいい
ということになったりするのだろうか?

一旦解けてしまえば、解はひとつしかないと認めざるを得ないのだが、
それまでの果てしない迷走や試行錯誤も、
読書の尽きぬ楽しみのひとつというべきなのだろうか。


2015年5月29日(金)【叫び】

ムンクはあの『叫び』という絵について、こう書いているという。

私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。
突然、空が血の赤色に変わった。
私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。
それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。
友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。
そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。
(Wikipedia 「叫び」エドヴァルド・ムンク)

「自然を貫く果てしない叫び」……
英訳は“ infinite scream passing through nature”となっている。

日記にはこうも書いてあるという。

I sensed a scream passing through nature;
it seemed to me that I heard the scream.
I painted this picture, painted the clouds as actual blood.
The color shrieked. This became The Scream

ムンクの「叫び」は油彩にリトグラフも加えれば計5枚ある。
あまりにも有名で美術の教科書にも必ずといっていいほど入っているし、
この絵を見ずに人生を終えるのは日本では難しいだろう。
それ以上に、
この血の色の「叫び」を聞かずに、人生を終えるのは、
日本でも他の国でも、もっと難しいだろう。
この絵も、こういう叫びも、
私たちはなんとよく知っていることか!



2015年5月26日(火)【戦死】

病院にいる間、いちばん多く考えたのは死のことだった。
それも有に対する無としての、
あるいは抽象的な虚無、皆無としての死ではなく、
「死に方」について、端的にいえば死に至るまでの苦痛についてだ。
私自身の苦痛が呼び水になって、その何倍もの他人の苦痛、
過去の無数の知人や知人でさえない人たちの苦痛が
ひどく切実な形で押し寄せてくる。
40年前、痛み止めも充分に処方されなかったころ、
自分は悪いこともしていないのに
どうしてこんなに痛いのかと
呻きながら胃癌で亡くなったという伯父のこと。
戦争中
やはり痛み止めどころか、食事もろくに与えられず、
名ばかりの野戦「病院」で
一碗のお粥をめぐって殺し合ったという負傷兵たち。

退院しても、他人の苦痛は押し寄せてくる。

昨日はインドの50度の熱波の中で
エアコンのない貧しい人々が700人も亡くなった。
そして今日防衛省は衆院平和安全法制特別委員会で、
特別措置法に基づいてインド洋やイラクに派遣された自衛官のうち、
54人が自殺していたことを明らかにしたという。


こういう星に65年も住んで、
私にできるのは絶叫することくらいなのだが、
それすら私はしない。
あなたとまったく同じように、
苦痛はもうたくさんだと呻きながら、
その苦痛をもっとふやそうとする政府を大声で罵ることもしない。


2015年5月24日(日)【六階】

入院していた多摩の大病院で、私のいた部屋はずっと六階だった。
イタリアのブッツァーティの『七階』という短篇小説に、
別に病気でもない人が病院の最上階に入れられ、
もっともらしい理由をつけられて次々に下の階に移され、
最後は臨終の者のための最下層に移されるという、
今にして思えば恐ろしい話があった。
私も同じフロアながら、1ケ月の間に似たような4人部屋を
ここからあちらへと5、6回は移動させられた。
容態に応じて医師や看護士がすぐに(あるいはのんびりと)
駆けつけられるようにするためだ。
その度にカーテンで顔の見えない同室者も変わり、
おかげで自分より軽い病状の人や重い人、
来し方行く末と今後受ける可能性のある処置もわかり、
ありがたいといえばありがたかった。
カーテンがあってもやはり個室より大部屋のほうが見晴らしがいい。
病院は新しくモダンな作りだったので、
同じフロア内のみならず、
そこから下界への見晴らしもよかった。
夜中や明け方に目が覚めると、することもないので
窓ガラスの向こうに惜しげもなく広がる府中の夜景に見入っていた。
そして他に考えることもないので、
やはりあのことを考えていた。
ものごころがついて以来、
ずっと考えてきたあのこと、
子供のころから、いってしまえば、それだけを考えてきたあのことだ。
あれこれ本も読み、人の話も聞いたが、今も考え終わることはないあのこと。
6階からいつの間にか、最下層に降りてきている今も……。


2015年5月22日(金)【お迎え】

病院に結局一ヶ月も入院していたのに、
なんだか現実感が乏しく、
ほんの2,3日のことだったような気がする。
手術の最中はもちろん麻酔で意識がなかったし、
手術前もその後も痛み止めや睡眠薬を四六時中飲んでいたので、
夢も現もどちらもうすぼんやりして輪郭がぼやけている。
割合はっきりしているものも、もちろんいくつかあった。
例えば入院したその日の夜、「お迎え」らしき夢を見た。
40年前に亡くなった私の最初のボーイフレンドが
黒いスーツ姿で列車に乗っていて、
「どうぞ」という感じで手を伸ばし、
隣の4人掛けの座席に私を案内してくれたのだ。
彼は40年前と同じ長髪で若いままだったし、私も若返っていた。
やや長めの髪に当時流行りのプリーツのミニスカートをはき、
黒いダッフルコート(本当に持っていた)を着ていた。
案内された4人席にふたりで座ったり、
抱き合ったりすることもないままに、夢は覚めてしまったが、
そうか、こういうことだったのかと、
私はすっかり安心した。
その夢が入院中の私を支え、手放しの安心感を与えてくれていたようだ。
結局、この度はそっちまでは行かなかったものの……


2015年5月20日(水)【鳥たち】

ぼくは歩きながら耳をそばだてた。
しだいに聞き取れてきた。
あの叫び声はたしかに絶望一色ではない。
鳥たちは呼びかけている。
ちょうど死刑囚が刑に臨んでなお何かを呼びかけるように。
何をだ?
もしぼくがその死刑囚なら何を呼びかけるのだ?
(残雪『暗夜』より 拙訳)

Top Page

inserted by FC2 system