(以下は2008年10月18日(土)、吉祥寺の新・古書店『百年』で行われた「中国現代文学・残雪の世界へ」近藤直子×古谷利裕 対談 をお聞きくださった残雪の読者、藤井多樹さんからいただいたメールと、それへの近藤の返信です。藤井さんのご了解を得て公開させていただきます。

近藤直子さま(2008/10/30 (木) 17:37)

 はじめまして。藤井多樹と申します。先日「百年」での対談を拝聴した者です。
 今年の春、松岡正剛さんの「千夜千冊」というサイトにて残雪を知って以来気になっていたのですが、その後、古谷利裕さんの「偽日記」にて近藤さんとの対談があることを知り、残雪を読むきっかけになりました。対談の数日まえに文学全集に収録された作品と『突囲表演』をようやく読み終えたというにわか読者ではありますが、いまの自分にとって最も必要な表現者かもしれないという気持ちで、対談を拝聴いたしました。
 「残雪は、自分の作品は解読され得ると思っているし、それを恐れていない」「残雪は交流を求めています」という近藤さんの言葉に、やはり、この対談をうかがえてよかった、と、とても嬉しくなりま した。個人の"深い無意識"を表出することをもってよしとする姿勢とはまるで違うのだということがはっきり分かったことは、私にとって重要なことでした。深みを高い意識でもって辿ることを保ちつつ言語化している、だけではなく、精神の運動の軌跡を開いてゆくことで示された現在のわたしという人間の意識の極限(無意識の深みを蠢きながら分け入り象り続ける、生き生きとした意識によって現出されている、その場)が、いつか突破され、新たな場に繋がってゆくことをこそ求めておられるのではないかと。
 残雪の作品が、人間意識の運動そのものの魅惑を示しているのだとしたら、彼女の作品が何なのか分からないと言ってそこに留まり続けてしまうのは、あまりに勿体ないことなのかもしれません。彼女の作品に(分かる/分からないというのではなく)呼応できるものがあるのだとしたら、それは現在の残雪の作品には似ないものとして現出されるのかもしれない、とも思われてきます。残雪自身の創作のきっかけになった「出来事」の現場から発生していった、彼女の表現がそのようであったように。変わってゆくなかで、不可思議に変わらないものがあるのだと、人間の意識の営み自体が示し続けてきたように。
 「解読されることを恐れていない」というのは「変わることを恐れていない」ということなのではないかと思ったのです。言葉で囲いきり?みきることのできない、生命としての言葉を動かし続けているもののことを、体感したい。
 私はずっと「言語発生の現場」のことが知りたい と思ってきたのですが、彼女の作品に、それを喚起 させられていました。こんなに不完全で厄介で魅惑 的で果敢な言語というものが発生したことの必然をもっと深く感じ取りたい。また、未だ現われない言語なるもののことが夢想されてしまう。その可能性を象ってゆくもの、新たなものの発生の予兆のようなものとしてあるだろう意識の高まりのようなものが自ずと思われてくる。
 そんなとき、残雪の作品に触れ、人間の可能性を探索し続けるエネルギーがあると感じました。そして、先日の対談での近藤さんの言葉から伝わる残雪さんのありようが嬉しく、また、「文藝」での日野啓三氏との対談で言語発生の現場にまつわることが指摘されていて、とても興奮しています。突然のメールで、長々とほんとうに失礼致しました。        藤井多樹


藤井多樹様(2008/10/30 (木) 23:22)

 メールをどうもありがとうございます。また先日は私どもの対談においでいただき、本当にありがとうございます。訳者が、自分の訳しているものを読んでくださる方々と会える機会はめったにありません。私も前回が初めてで、あの狭い場所にあんなに多くの方々が、残雪の話を聞くために来てくださっているのを見て、もうそれだけでありがたく、心強く、励まされました。残念だったのは、終わったのがそろそろ終電が心配になるような時間で、おひとりおひとりに残雪の感想をお聞きできなかったことです。
 今日こうして藤井さんからのメールを拝見し、改めて訳者の喜びをかみしめることができました。残雪のあの不思議な小説に魅せられてぼちぼちと翻訳を続けてはきたものの、私自身は創作をしたこともなく、それほど鋭敏な読者ではありません。私にできるのは可能な限り原意を損ねないよう(贋金造りになりたいのですが、しばしば不本意な詐欺師にもなっています)努めた訳文と、翻訳の中で得たささやかな感想を提供し、より鋭敏な読者の方に残雪の読みの可能性を展開しつくしていただくことです。ですから藤井さんのような読者がおられるのを知るのはこの上ない喜びで、残雪が書いているのも、私が訳しているのも、おそらくこういう方々に読んでいただくためなのだとろういう気がします。
 ご参考までに残雪の「言語発生(発声)の現場」に関わる文章をご紹介させていただきます。
eturan2itan.htm
 藤井さんはもしかしたら創作をしておられるのでしょうか? 私よりはるかに深く残雪の核心部分を読んでおられる気がします。東京にお住まいなのでしょうか。おいくつですか? 女性でしょうか? せっかくお目にかかっているのに、お話しできず、本当に残念でした。今後また何かの折にぜひいろいろお教えください。                近藤直子


近藤直子さま(2008/11/01 (土) 7:53)

 ごていねいなお返事をありがとうございます。
 あの対談は、近藤さんのお言葉を聴きたいという気持ちを抱いて行きました。というのは、『残雪ー夜の語り手』を図書館から借りて(間に合わず)最初のほうだけを拝読して行ったのですが、近藤さんの文章には語りの力があると感じたからです。私は人の語りを聴くのが好きで、最後に(残雪という名前についての質問の直前に)残雪の文章を朗読されたときはメモをとることも忘れてしまいました。あの文章もとても大切と思いました。
 私には芸術にきちんと触れた経験がありません。情けないほど何もかも勉強経験不足で、本もあまり読んできませんでした(お恥ずかしいことにカフカも...『魂の城 カフカ解読』を読むためにも読まねばと思っています)。「鋭敏な読者」ではないと思います。
 そういう人間ではありますが、人間の営みの無数の未だ現われない可能性のなかを分け入りながら、これだという感触が生まれてゆくようなこと(それは残雪のつかみたい「奇跡」? エピファニーという言葉が 浮びますが)を探求し続けているようなものに関心があります。人間の意識がどこかに向かってゆこうとしている、その動き続けているもののことが知りたいと思っています。(関連として、「暗黙知」に関心があります。私などにはとても手に追えない学問なのですが、分からないままに惹かれる、というような...残雪の作品みたいに。)
 私はほとんど直観で動いてしまい、前のメールでお伝えした私の言説にこそ「不本意な詐欺師」だと思わざるを得ません。けれども、それでも、思い切って感じていることをお伝えしてみたいと思いました。
 分からないままにどうしても感じてしまう、というようなもののなかには、まだ形にならないでいる可能性もふくめて蠢いているものがあって、それがなにかの拍子にある方向性を嗅ぎつけたとき、それまでとは(形は)違う(けれども)生命(という不可思議に通底するもの)に
なってゆくときの、運動そのものを目撃することができるのではないか、と。残雪は、ご自身が浴びてきた文学をふいに理解するという出来事によって、その運動の核心にあるものを知覚したのかもしれない、という想像も勝手ながらされています。
 「翻訳」も、まさにそういうことに関与している行為のような気がします(粗雑で浅はかな直感ですが)。自分とは違う体系ーー言語だけではなく、究極は身体を含めた意識ーーを持って生きている他者の表出を受け取る、受け取った存在を通っていったものが生きた命としてまたどこかに繋がってゆく、その、通過し続けてゆくこと(もの)に関与するということ自体に、なにか人間にとって大切な出来事があるように思われるのです。
 そういう風にとらえてゆくと、残雪の作品から立ちあらわれてくる動きは、もちろん「創造」ですが、(直感的でやはり雑な物言いになってしまうのですが)本来の「翻訳」という行為にも近いのではないか、という気もしてきます。言語が発生してゆくというのは、言葉として形をとっていないものを象ってくる行為なのですから、そこに変換が起こっている。けれども、それによって殺されない、そこに生き生きとした通路が生成され続けてゆく。
 けれども、やはり不思議なのは、生きているという、この感覚って、どういうことなのか.......と書いていると、作品自体からどんどん離れて話してしまいます、どうかお許しください。
 私は東京都内に住んでいる30歳の主婦(女性)です。創作はしていません。芸術が成してきた本質的な行為というは日常にあり得るもので、目の前にいる他者の深いところに届くような言葉を発しあえる関係が発生してゆく場が生成されてゆくことが必要だ、と感じてきました。なにも大層な言葉をつかう必要はなくて、私たちはともに生きているのだということを感じられるように、感じることを関係性のなかで意識化してゆく、話し合い育み合いながら人間について知ってゆけたら、という思いでいました。
 『突囲表演』に描かれていることは、程度の差はあれ、ここに遠いものではないという感じがします。松岡正剛氏が書評で「われわれが残雪を知って意表を衝かれるべき状態の社会にいつづけていることだけはまちがいがないことで、そういう意味では、残雪によって日本の社会の一角が爆破されるのもありうることだという気にさせられる。」と書かれていましたが、この作品を読んで私は、圧迫を感じさせられていたものが飄々と剥ぎ取られ自身が解き放たれてゆくような感じがしました。
 ご紹介くださった「異端の境界」という文章、ありがたく息を吹き返すような思いで拝読しました。この、声を持ちながら語りえないというふかい孤独を持たざるを得なくなった人間が、それでも生きて言葉を発してゆく場のことを、そこに起こっていることを、もっと感じ受け取ってゆかなければならないのではないかと思います。
 私は、隣にいる他者をいちばん遠いと感じる意識にこそ言語が発生し得るのだと思っていました。未だ触れえない遠い他者を恐ろしく近いものとして捉えてしまうことと同様です。それは人間にとって避けられなかった激痛であり断絶で、跳躍によって越えなければならなかった。
 残雪を読むということは、生きものとしての人間をふかく知ってゆくことに通じているのでしょうね。あの日の対談で、人間を生き切ろうと している存在としての残雪を(勝手ながら)感じられたことは、私の歓びでした。そして、近藤さんの存在の出現は残雪さんにとってどんなに 嬉しいことだったろうと想像されます。
 人間の無限に手を伸ばし続けていた日野啓三さんを敬愛しています。残雪さんとの対談は、私にとって限りない歓びに満ちたサプライズプレゼントでした。このような作品の出現こそ奇跡だと彼によって既に指し示されていたとは、という感慨もふかく... 
 また、人間という種にとって、翻訳という行為はとても重要で本質的なことなのだと思います。近藤さんのお仕事がますます充実したものとなりますように...そして、残雪の本、再版か文庫化されますように...これは今こそ為されるべきではないかと、きっと多くの読者が待ちこがれているはずです。
 またつい長々と書いてしまいました。粗雑で勝手な物言いばかりで、失礼をお詫び致します。
 残雪、遅ればせながら、引き続き読んでゆきたいと思います。また近藤さんのお話がうかがえる機会があれば嬉しいです。
 それでは、どうぞお元気で。        藤井多樹


藤井多樹様(2008/11/01 (土) 21:00)

 再びメールをどうもありがとうございます。前回も申し上げましたが、藤井さんのおっしゃっていること、残雪文学の核心に関わるきわめて重要なご指摘だと思います。私自身がずっとなにかの形で触れたいと思いながら、どう表現したらよいのか迷いつづけてきたことでもあります。それを単刀直入に、見事に言語化していただき、目が覚めた思いです。そこでお願いなのですが、これを二人だけの交流に留めるのはあまりにももったいないので、もしよろしければ、これまでのやりとりを私のホーム・ページ「中国文学小屋」に対談後のある読者との交流として公開させていただけないでしょうか?
 もちろんおすきなペン・ネームをお使いいただいてもけっこうですし、手紙形式ではなく、一篇の残雪批評におまとめいただければなおけっこうです。「中国文学小屋」は1日のヒット数が多い日でも20足らずの実にささやかなHPではありますが、残雪の熱心な読者の方がしばしば訪れてくださる唯一の場でもあり、藤井さんの読みがそういう方々の大きなヒントにもなり(もちろん反発もあるかもしれません)、残雪の世界の展望がさらに大きく広がるのではないかと思うのです。突然の不躾なお願いで恐縮ですが、いかがでしょうか?             近藤直子


近藤直子さま(2008/11/02 (日) 8:08)

 残雪の作品をこういう風に受け取っているのは、私が一方的な個人的な願いのようなものに絡めとられてしまっているからなのかもしれない...という危惧も感じながらお伝えしましたが、近藤さんにこのように言っていただけてとても嬉しいです。
 ホームページ掲載の件、もちろん構いません。すべての文面を掲載する必要はないのではと思います。近藤さんが私のメールから「残雪文学の核心に関わる」と思われた部分を切り貼りして送ってくだされば私がその文面から無駄な言葉を省きましょう。それを掲載してみるというのはいかがでしょうか。(たとえば、「(粗雑で浅はかな直感ですが)」というような言葉は、読む方に核心部分を伝えるということになんの必要もないので省く、というような作業を通しても、「対談後のある読者との交流」としての文面であることを損なうものではないと思います。)
 「一篇の残雪批評」が書ければよいのですが、今の私にできるのは、残雪を読んで感じたり思ったり考えたりしたことをお伝えするということです。作品の言葉そのものにじっくり向き合ってちゃんと読んだとはとても言えない私には、批評文のようなものは書けません。残雪に触れたことで自分自身の方向性志向性のようなものをよりくっきりと感じている...ということなだけなのかもしれず、近藤さんへのメールもそういう自分本位な表出だったと思います。けれども、近藤さんがそれに「残雪の核心」を感じてくださったのであれば、より残雪について深めることができるのかもしれません。たたき台としてお使いくださればと思います。
 近藤さんが「残雪文学の核心に関わる」と思われた部分に対してどのようなお言葉をもたれるのか、うかがってみたいという気持ちもあります。核心と思われたところを、よろしければ教えてくださいませんか。もうちょっと突っ込んだ反応がでてくるかもしれませんし...。
 私が書き連ねたことは、(当たり前ですが)もともと私が持っていたものではありません。私がこれまでに触れてこれは大切だと感覚してきたことです。近藤さんが私のメールに核心を感じられたことの背後には、くっきりと何人もの人が存在しているはずで(古谷さんもその一人だと思っています)、そこに触れられれば、より近藤さんが残雪文学の核心と感じられているものに近づくきっかけになるのではないでしょうか。     藤井多樹


藤井多樹様(2008/11/02 (日) 16:25)

 早速のお返事とHP掲載のご快諾をありがとうございました!
いただいたメールとこちらの返信をそのままファイルにまとめ、核心にかかわる部分と思われる個所の「切り貼り」を考えてみましたが、ほかもよい流れになっていて削るには惜しいところばかりです。 藤井さんのほうでもう一度ご覧いただき、挨拶がらみの箇所を含めて、削りたい箇所があれば、どんどんご遠慮なく削り、あるいは修正していただければ幸いです。それに合わせて私の分を修正し、それを再度お送りして、必要なら再度修正していただいて、それからアップさせていただきたいと思いますが、そんな手順でいかがでしょうか?
 残雪はごく初期から「奇跡」という言葉を使っており、(「天国の対話」冒頭「詩はあなたの長い道連れ、奇跡を起こせとあなたを誘う」)これまでの彼女の批評はそれを理論化する作業であったともいえますが、読者の側からその「奇跡」を直観的にとらえ、その展望を語った文章はほとんどありません。 実際批評論文の形ではあまりにも書きにくく、へたをすると独善的な予言者風か神秘主義に陥りかねず、しかも根拠を明示して筋道だてて説明しようとすると肝心の「奇跡」、残雪の実験性、そのスケールと強度がみるみる失われていきます。藤井さんのメールを拝見して、もしかしたら読者からの手紙という形式がこのジレンマから抜け出し、「奇跡」の強度をストレートに読者に伝えるための、唯一の出口なのかもしれないと思えてきました。なにとぞよろしくお願いします。         近藤直子 


近藤直子さま(2008/11/02 (日) 23:10)

 ご返信ありがとうございます。
 おそらく近藤さんも感じられておられるのでは...とお返事を拝読して思ったのですが、このやりとりそのものがまるで残雪的ではありませんか。つまり、感覚していたものの可能性を探索し続けていた軌跡がぶつかった現場、という。こんなにすばやく通じ、そして未完です。楽しい!
 メールのやりとりをまるごと時系列に掲載してしまうほうが、手を加えたものを掲載するよりも、残雪文学の核心に迫り得るものになるかもしれませんね。残雪の文学が刻々と記述されるものであるように。私がしきりに「浅はかな直感ですが」というようなことを書いているところも含めて。(この言葉、今にしてみればおかしみがある気もします。)
 このやりとり自体が少しも「独善的な予言者風」でも「神秘主義」でもないということからまず、近藤さんが抱えていらした「ジレンマ」が突破される一撃になることを願います。そういえば、対談のなかで古谷さんがご指摘されていましたが、「手紙」は残雪にとって大切なものですね。ここ数年、「手紙はあなた=彼方に渡される」という可能性が無闇に近いところで閉じられてゆくような息苦しさを感じる世界に、どうにかして穴をあけて糸を通して、手紙にかきこまれてゆくひそやかにも生き生きした命を繋げてゆくことが大切なのではないか、という思いがつよく涌いていました。私は、誰にも読まれない手紙を書いたのではなく、近藤さんに届けてみたいというただそれだけの思いだったのです。返事が返ってこないように箱にしまい込んだりする手紙ではなくて。あの手紙は、今どこでしょう。
 核心部分のことなどをもっと突き詰めてお話してゆけば、きっと他の分野で深められていることにも繋がってゆくのではと思われます。近藤さんがそれをどんどん生かしてゆかれることで、残雪により近づくことができると良いなと思います。近藤さんが抱えられていた核心部分が確 認できることを楽しみにしております。これからも残雪という通路が光のように伸びてゆきますように。        藤井多樹


藤井多樹様:(2008/11/02 (日) 23:58)

 お返事をどうもありがとうございます。私も藤井さんさえよろしければ、いっそありのまま全文アップする方がよいと思います。そのほうがこの地上の対話が「天国」にどうつながるのか、入口が見えやすい感じがします。たしかに、ことばでは表しがたく、しかしことば以外では表すことのできない「核心」は、このやりとりそのものにあるのかもしれませんね。人は今も変わり得るのだということ、希望と理想を持ち得るのだということ。残雪の新たなことばの実験に改めて加わる機会を作っていただき、本当にありがとうございました。また折を見て、ぜひお話ししましょう。     近藤直子

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