黙らないための雑記帳


 沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、続けよう。

     ( ベケット「名づけえぬもの」安藤元雄訳より)


2013年4月22日(月)【型と囲い――頁の終わりに】 

文章を書くのが常に億劫なのは、後で後悔するとわかっているからだ。なにを語っても、たいていは言い過ぎるか言い足りないかのどちらかであって、しかも往々にして、強度や、アクセントの位置や、ときとして方向さえも、どこかしら期待したものとずれている。そのときは感情の赴くままに書いていても、波が退いてしまえば、書かれたことばだけが流し忘れた排泄物のように残る。
 どんなにことばを費やそうと、語ることの不全感を克服することはできず、沈黙の充実に追いつくことは永遠にできない。表明されたことを否定するのは、常にあまりにも容易だ。そのことば、その文、その文章は、不完全さ、不全性そのものとして、だれよりも自分自身による360度、全方向からの批判に永遠にさらされ続ける。「そのこと」は常に「私が言いたかったすべてではない。」
 こうして人は黙りこむ。あるいは、空気のように気にならない日常的な無現反復の文と、いってもいわなくても同じ事務的な定型文に逃げこむ。おとなしく型にはまっていれば、いらぬ後悔はせずにすむ。しかし今、その安全なはずの「型」と、さらに安全な逃げ場としての沈黙が、語る舞台そのものを崩壊させ、そこに閉じ込められた声をあげる生き物を破滅させようとしている。
 2年前の4月22日、福島に「警戒区域」が設定されて、多くの家畜が閉じ込められたときから、私もおずおずとしゃべり始めたのだった。大半の家畜は結局餓死してしまったが、牛も豚も犬も猫も囲いの中でそれぞれの固有の声で、声を限りに幾度も幾度も鳴きつづけていたにちがいない。その鳴き声は結局は無効だったが、私たちにはとどいていた。身動きもろくにできない暗闇の囲いからとどく、その想像の鳴き声だけがその動物が生きている最後の証だったのだ。
 人間ははるかな昔、動物としての固有の声を失い、かわりにことばを得て、鳴く代わりに語るようになった。そしてどうやらそのことばによって、動物たちと、動物としての人間自身を閉じ込め、死へと追いつめる囲いを作ってきたらしい。私たちがその囲いの中で、自分がまだ生きていることを思いだし、そして囲いを破るためには、やはり億劫でも、これまでの死への「型」とは別な、生気と臭気に満ちたことばを語っていかねばならないのだろう。
 ある牛小屋の写真の中で、牛たちは自らの排泄物の中に半分埋もれていた。あるものはすでに死に、あるものは食べるものもないはずななのにまだ生きていて、その中で、たぶん、排泄を続けていた。

 あの日から丸2年、「黙らないための雑記帳」はここで一旦閉じます。
 3年め、生きるための排泄の場はさまざまな事情から本業のほうに移すことにしますが、また折を見て、別な形で再開するかもしれません。長いあいだ閲覧していただき、ほんとうにありがとうございました。

2013年4月20日(土)【阿呆たちの舞台】
 何事もなかったかのように日々は続いている。これからも何事もなく続いていくだろうと感じることさえある。しかし、それが嘘だということも、私たちははっきり知っている。退っ引きならない「事」がまぎれもなくすでにあり、ますます退っ引きならない「事」が目前に迫っていることを知っている。
 一旦事故が起きれば手のつけようのない原発や廃棄物貯蔵施設が満遍なく配置されたこの国に、北から南まで満遍なく有感地震が置きつづけている。汚染水もさまざまなゴミも日々大地と海を取り返しのつかない形で汚しながら、遠からず日本全国をタンク置き場とゴミ捨て場にするしかない勢いで増え続けている。
 毎日警告がある。警告しかない。緊急警報は鳴りっぱなしで、音はますます大きくなっている。だが、私たちは稼働中の原発ひとつ止めることもできず、それを輸出したり核燃料を輸入したりするのを止めることもできないまま、手をつかね、途方に暮れてそこに突っ立っている。手詰まりというよりも、ツイッターでだれかがいっていたように、日本はもう「詰んでいる」のかもしれない。人類も、世界も……。シェイクスピアの時代、どんな阿呆も思いつかなかった芝居の舞台そのものの破壊を、現代の阿呆たちはそのつもりもなしに続けている。
 まったく「阿呆らしい」というしかないこの芝居のシナリオは書き換えられるのか? 役者たち全員が奈落に落ちてしまわないうちに、書き換えは間に合うのか? かりに本当に詰んでいて、もう間に合わないにしても、どうせぎりぎりまで芝居は続けざるを得ない。わたしたちが実際に死につつあるのならなおさら、生きようとするかのような芝居に変えることはできないものか。それを演じてこそ、生まれついての役者、人間というものだろう。
 舞台そのものを崩壊させる、このだれも書いた記憶のない巨大シナリオは、役者のひとりひとりが賢い脚本家になり、ひとつひとつの台詞とト書きに朱を入れることによって書き直していくしかない。

2013年4月19日(金)【忍耐】
 うっかりシエィクスピアの引用など始めてしまったら、自分で書く気が失せてしまった。もっとも、自分で書いたところで、どんな言葉もオウムの口真似に変わりはない。いずれにせよ「黙った」ことにはならないだろう。

 リア王:忍耐するのだ。われわれは泣きながらこの世にやってきた。 
 ほれ、初めて空気のにおいをかぐと、みな悲しげに泣くではないか。……
 生まれたら、阿呆ばかりのでかい舞台に来てしまっていたと泣くのだよ。

2013年4月18日(木)【牢獄】
 
 ギルデンスターン:牢獄ですって?
 ハムレット:デンマークは牢獄だ。
 ローゼンクランツ:それなら世界じゅうが牢獄です。
 ハムレット:じゅうぶんにな。幽閉も、監房も、地下牢もやまほどある。
 ローゼンクランツ:私どもはそうは思いませんが、殿下。
 ハムレット:ならば、きみたちにはそうではないのだろう。善いも悪いも考え方でしかないのだから。おれには牢獄だが。
 
【0419大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】2年目に突入!大飯原発を停止せよ!全ての原発を廃止せよ!4/19(金)18~20時。首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=2971

2013年4月17日(水)【人間と畜生】
 
 この人が私たちの首長なのだった。おまけに彼も「作家」なのだった。

・「歌いたくなかったら口パクやってろ」/「君が代」処分で猪瀬都知事
 http://news.livedoor.com/article/detail/7548714/
 
 What is a man,
  If his chief good and market of his time
 Be but to sleep and feed? a beast, no more.
 人間とはなんだ
 人生の旨みと売りが
 寝て食うだけのことだとしたら?畜生と変わらぬ。(ハムレット)

 シェイクスピアは人間は畜生以上のものであるべきだと考えていた。だからシェイクスピアなのだろう。
 猪瀬氏は人間は畜生以下のものであるべきだと考えている。(畜生は食うために「口パク」はしない)。
 だから日本の政治家なのだろうか。餌さえ投げてやればなんでもいいという。
  
2013念4月16日(火)【沈黙する権利】
 
 命じられて歌う教員が、子どもたちに教えられるのは、命じられたら歌えということだけである。
 心の底から、胸の奥底から権力に服従せよ、つまりは隷従せよと。
 命じられた歌は、そのとたんに、もはや歌ではない。
 国歌であれなんであれ、
 歌えと命じることは、歌うことへの侮辱、歌う生き物、人間への侮辱であり、
 そして、その歌への最大の侮辱でもあるだろう。

 君が代不斉唱と来賓通報、大阪 入学式司会の教諭
 http://news.livedoor.com/topics/detail/7598742/

 国旗掲揚、国歌斉唱に関する諸外国の判例・事例より

・1977年 マサチューセッツ州最高裁
 「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を有する。」
・1977年 ニューヨーク連邦地裁
 「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、個人の自由である」
・1989年 最高裁判決(国旗焼却事件)
 「我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる」
 http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col1200.html

2013年4月15日(月)【To die, to sleep】

 「ハムレット」は学生時代に授業で読んだ小津次郎氏の注つきテキストがまだ取ってあるが、これを翻訳するとなったらはほんとうに悩ましい。
 公刊された訳だけで40種類を越えるといわれる“To be, or not to be: that is the question.” の後にはこう続く。

 Whether 'tis nobler in the mind to suffer
 The slings and arrows of outrageous fortune,
 Or to take arms against a sea of troubles,
 And by opposing end them? To die: to sleep;
 No more; and by a sleep to say we end
 The heart-ache, and the thousand natural shocks
 That flesh is heir to — 'tis a consummation
 Devoutly to be wish'd. To die, to sleep;……

 たとえば、野島秀勝氏の岩波文庫の訳はこうなっている。
 どちらが立派な生き方か、
 気まぐれな運命が放つ矢弾にじっと耐え忍ぶのと、
 怒涛のように打ち寄せる苦難に刃向い、
 勇敢に戦って相共に果てるのと。死ぬとは――眠ること、
 それだけだ。そう、眠れば終わる、心の痛みも、
 この肉体が受けねばならぬ定めの数々の苦しみも。
 死んで眠る、ただそれだけのことなら、
 これほど幸せな終わりもありはしない!
 
 納得できるようでもあり、できないようでもある。
 この時点でハムレットの復讐願望と終焉願望とどちらがより強いのか。それによって独白の色調も一語一語の選び方もまるで変わってしまうわけだが、読めば読むほどわからなくなる。ハムレットは生きたいのか、それとも、死にたいのか、死ぬために生きたいのか、それとも、生きるために死にたいのか。
 
2013年4月13日(土)【To be, or not to be】
 
 シェイクスピアは、これ以上ないほど簡潔な形で究極の問題を出していた……はずだ。
 HAMLET
 To be, or not to be: that is the question:
 
 ところが邦訳を探してみると、実にいろいろな訳文がある。

・「世に在る、在らぬ、それが疑問ぢゃ」(坪内逍遥 )
・「生きるか、死ぬか、そこが問題なのだ」(市河三喜・松浦嘉一)
・「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」(本多顕彰)
・「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」(福田恒存)
・「生か、死か、それが疑問だ」(福田恒存)
・「在るか、それとも在らぬか、それが問題だ」(大山俊一)
・「やる、やらぬ、それが問題だ」(小津次郎)
・「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」(小田島雄志)
・「生きるか、死ぬか、それが問題だ」(野島秀勝)
 
 当然といいえば当然だろう。どんな外国語の文章も解釈せずに翻訳することなどそもそも不可能だが、シェイクスピアは、その解釈を惰性的、機械的にすることを許さない。ほとんど一行ごとに、訳者にありったけの洞察力をかけた答えを求めてくる。しかも問題は存在を示す広大無辺な動詞“be”そのものなのだ。問われた者はそれまでの全人生、全存在をかけてなお迷いながら答えていくしかない。シェイクスピア自身もその迷いを知っていたからこそこう問うたのだ。この問いに続く独白も迷いと人を迷わせる種に満ち満ちている。
 
2013年4月11日(木)【言葉2】
 多くの西欧文学の言葉が死ぬためでも殺すためでもなく、生き生かすための言葉だということに気がつくまでに随分時間がかかったような気がする。
 子どものころから西欧のお話が好きで、中学高校のころも西欧文学ばかり読んでいた。しかし今にして思うと、なんともひねくれた頑固な読み方をしていた。ヘッセを読んでもロマン・ロランを読んでもカミュやカフカを読んでも、目に留まるのは「だから生きるのは無意味だ」という、いつ思いついたのかも定かでない結論を補強する言葉ばかりだった。カフカなら、もちろん「審判」の「犬のようにくたばる」だ。
 いちばんひどいのはトルストイの「懺悔」の読み方だった。そこには私好みの「東洋の寓話」が引かれていた。猛獣に追われて枯れ井戸に逃げ込み、隙間から延びている枝につかまった旅人が、その井戸の底に竜がいるのに気づく。上には猛獣、下には竜、おまけに鼠が彼のつかまっている木の枝をかじりはじめる。どう転んでも死ぬしかない。ところがその木の枝の葉になにかの蜜がついているのに気づき、彼はそれをなめはじめる。
 私がその寓話で得た結論、「人生なんてそんなもの」もトルストイと同じで、私はすっかり満足し、その後の神がどうしたこうしたなどという部分はまったくの他人ごととして、ただのおまけのように感動もなく読み飛ばした。しかし、あたりまえだが、トルストイは「その後」のことを書くために「懺悔」を書いたのだった。
 中学生でも簡単に思いつくやくざな結論にたどりつくためではなく、一旦たどりついてしまうと脱け出すのが容易でないその枯れ井戸からどうやって脱け出すかを身をもって示したのだ。
 その文庫本が「懺悔」という題名で、本の最後に「かくて私は夢からさめたのであった」と書いてあることに、夢からさめたように気づいたのは、背表紙が変色してもう題名も判読できなくなったころである。

2013年4月10日(水)【言葉】
 山本博さんというアーチェリーの銀メダリストが日体大で「体罰」撲滅のための講演をしている様子が放映された。一流のスポーツマンの口からでた言葉にどきりとした。

 「言葉で伝えなさい」
 「言葉で伝えられるように豊富な知識を身につけなさい」

 そう。人間は殴るためではなく、殴らないために、言葉をもっているのではなかったか。
 殺し合うためではなく、殺し合わないために、言葉をもっているのではなかったか。
 「おたがい馬鹿なことはやめよう」というためには、もしかしたら、知識さえたいして必要ないかもしれない。
 ではいったいなにが必要なのか?
 私たちの国と、私たちの世界で、人々が殺さないための言葉を語るのに、
 いったい、なにが、こうも絶望的に欠けているのだろう。
 
2013年4月8日(月)【俺たちが言いたいのは】
  
 「気狂いピエロ」という映画があった。
 頭に爆薬を巻きつけながら
 「俺が言いたいのは」といって、
 導火線に火をつけてしまい、
 それをあわててもみ消そうとしながら
 「俺は馬鹿ってことさ」

 そしてボボボーン!

 俺たちが言いたいのも、結局、そのことなのだろうか?

 プーチン氏「隣国として不安」 北朝鮮の核挑発に懸念
 「もし(核兵器の応酬が)起きれば、チェルノブイリ原発事故も『子どものおとぎ話』のように見えるだろう」
 http://www.asahi.com/international/update/0408/TKY201304080352.html

2013年4月6日(土)【汚染水 半日でドラム缶千本】
 
 汚染水は、こうしている間にも、毎日400トン(半日でドラム缶換算千本分)ペースで増えている。
 その半日分にも満たない量が漏れただけでこうなる。

・漏れた汚染水は120トン 福島第一、地下水に混入か
「東電は6日、漏れた量の推定を約120トン、漏れた放射能は約7100億ベクレルと発表した。事故前の年間排出上限の約3倍の量。」
 http://www.asahi.com/special/news/articles/TKY201304060050.html
・福島第1原発:汚染水処理の対応は「自転車操業」
「第1原発周辺の汚染水総量は、処理済み分も含め2日現在、計約37万立方メートル(ドラム缶換算で185万本)。現在も地下水や雨水も流入し、1日約400立方メートルずつ増えている」
 http://mainichi.jp/select/news/20130406k0000e040174000c.html

2013年4月5日(金)【なぜ全原発を廃炉にしなければいけないのか】
 
  体温め替え歌で励まし娘守った父 暴風雪から1カ月
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013040501002170.html
 
 こういう状況になったら、ほとんどの大人はこうやって子どもを守ろうとするだろう。
 人類が続くかぎり、1年後でも100年後でも、1万年後でも100万年後でも。
 しかし、子どもにおおいかぶさってどんなに強く抱きしめても、
 「サッちゃん」の歌をうたいながら自分は死んでいっても、
 ふりそそぐ放射能から子どもたちを守ることはできないのだ。
 今だってもう……

 放射性物質:大量放出「100万年に1回」 規制委目標
 http://mainichi.jp/select/news/20130404k0000m040100000c.html

2013年4月4日(木)【原発コント】
 
 2006年ころのものらしい。残念ながら途中で急に殺人事件ものに変わり、続きの(2/2)もなぜか見つからない。しかし、まあ、わざわざ探すまでもない。この2年あまりテレビも新聞もこのコントの続編で溢れかえっているのだった。「秋山君」は結局現れないものの、代わりが日本一の「豪華キャスト」で毎日現れている。
 
 原子力発電所 (1/2) The Geeseも出演
 http://www.youtube.com/watch?v=5W6zVPkeNuw

2013年4月3日(水)【飛べない蝶】
 
 福島の2年目の春が来た。
 殻からうまく出られず、一度も空を飛べず、一度も花の蜜を吸えず、
 もがきながら死んでいく蝶は、たくさんいるのだろうか?
 だれも見届けられるはずはなく、数えられるはずもないが……

 「福島原発周辺で「動植物異常」相次ぐ」 
    チョウやニホンザルなどに異常、研究者が被曝影響と指摘
 http://toyokeizai.net/articles/-/13516?page=4(東洋経済)

2013年4月2日(火)【サクリファイスー犠牲】
 タルコフスキーの映画「サクリファイス」は、やはり不思議な映画だ。
 3・11以来ときどき思い出すのだが、そのたびに考えこんでしまう。

 映画の中で、主人公は自分の誕生日に子どもといっしょに日本の松の木を植え、
 枯れ木に三年水ををやりつづけて生き返らせた修道士の奇跡の話をする。
 その後、核戦争による終末が来る。
 だが、それはまだ、翌朝覚めることのできる夢だった。
 だから主人公は目覚めると、それまでの生活をすべて焼き捨てることで世界を救おうとした。
 
 しかしこの映画が公開されたのは1986年春、チェルノブイリ原発事故の後だった。
 その年が終わらないうちに、タルコフスキーは54歳で亡くなった。
 そして、25年後に日本の震災と原発事故があった。
 奇跡の一本松は結局枯れたけれど、種を残すことはできたという。
 だれかが、水をやりつづけてくれているのだろう。ひょっとしたら子どもといっしょに。
 しかしこっちの主人公たちは、まだ目覚めてもいないし、犠牲もはらっていない。
  
 この映画で流れていたのは「マタイ受難曲」だった。
 「マタイ伝」によれば、ユダは銀貨30枚でイエスを売り、イエスが有罪にされた後で、
 銀貨をすべて投げ捨て、自ら首をくくったのだった。

2013年4月1日(月)【エイプリル・フール】

 2年前のあのことが冗談だったらよかったのにと思い、
 だから、本当に冗談だったことにしてしまった、
 などという冗談をいっているのは、いったい、だれだ?

2013年3月30日(土)【明日の日本、あるいはすでに】

 かつて他人事だったときには公然と放映されたきわめて深刻な内容。
 もはや再放送はないでしょう。御用放送協会が変わらないかぎり。
 1986年のチェルノブイリ原発事故から10年後のドキュメ­ンタリー。
 「今では病人のいない家庭はないくらいです。 やはり食べ物による放射能の影響ではないかと思います」
 「かれらは脳の血液の流れが悪いだけでなく、神経細胞の働きまで低下しています」
 http://www.youtube.com/watch?v=uPFcn23q7uc
 http://www.youtube.com/watch?v=0_NRz4vnESc&NR=1&feature=endscreen
 http://www.youtube.com/watch?v=SjINkMMCiT0
 http://www.youtube.com/watch?v=g4LeI8cTgVY

2013年3月28日(木)【総括原価方式】
 また電気料が上がる。その電気料を決める「総括原価方式」を改めてまとめると、

  ①原価 + ②報酬 = 電気料収入

①原価とは
 ・発電所の建設・保守費
 ・燃料費
 ・人件費
②報酬とは
 ・事業資産価値の4.4%

 要するに、電力会社は
 ・石油やLNGを世界一高い値段で買っても痛くも痒くもない。
 ・原発をたくさんもつほど報酬が増える。

・【0329大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】2年目に突入!今週は総力を官邸前に!(国会前ステージはありません)3/29(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年3月27日(水)【夢うつつ】 
 実は月曜の朝起きる前に夢を見て、二日たってもときどき夢うつつの感じがしている。周知のように夢のリアリティーというかインパクトは強烈で、そのくせたいてい目が覚めるとすぐに消えてしまうものだが、亡くなった人に出会ったシーンや美しい風景など、消えるにまかせるのがもったいなくて、メモしたり、繰り返し反芻したりしていると、けっこういつまでも残る。
 そんなわけで、私の夢ギャラリーには、亡くなった犬に出会ったイギリスのヒースの丘や、亡くなった友人に「なんだ、生きてたの」と声をかけたパゴダのある通りや、吸いこまれそうに美しい芦ノ湖と富士山だのの「写真」がたくさん並んでいる。不思議なのは、そういう色あせることのない写真を鑑賞していると、なにやらそっちの風景のほうが本物の世界で、起きて見ているこっちのほうが偽世界のような気がしてくることだ。
 月曜の夢もまさにそれだった。他人の夢の話ほど退屈なものはないという説もあるので前後と物語は省略するが、飛行機の上から世にも美しい風景を見た。オーストラリアに行くはずだったのに、下に見えたのはニュージーランドの形をした細長い島で、その島じゅうが「夢のような」緑の丘陵。そこにおとぎばなしのような赤っぽい屋根の白壁の家が楽しそうに二列に並んでいた。二階家も平屋も丸屋根のモスクらしきものあった。そのモスクらしき建物のある部屋の机の上には白い猫も坐っていた。
 一年近くかけて残雪の長編小説「最後の恋人」をようやく翻訳し終え、なんとか解読のめどがたったところだ。(行き先が当初想像していたのとは少し違った。)もしかしたらドラゴン・クエストのエンディングのように、これまで冒険した各地を上空から見て回るご褒美旅行だったのかもしれない。だとすればそれこそ私の心的現実なのだろう。そして心的現実以上に現実的なものがあるはずもない。しかも私が旅したのも残雪のまさにそういう「現実」世界だ。その旅の後で見た夢が、私を夢うつつにするのも当然かもしれない。

2013念3月26日(火)【悪いこと】

 「体罰」についてのふたつの議論がツイッターでいつまでもくすぶっている。

 A:悪いことをしたら、なぐられても当然だ。
 B:なぐるのが「悪いこと」なんだよ。

 A:口でいってもきかない生徒は、なぐるしかない。
 B:そういう人はそもそも教員になるべきではない。

 結論は出ていると思うのだが、どうしてこんなになぐりたがり、なぐられたがる人が多いのだろう。
  
2013念3月24日(日)【風評被害対策】

・首相 農産物の風評被害対策に全力
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130324/t10013417441000.html


 またしても首相発言をそのまま報じるあきれた報道だ。
 「放射能被害対策」に全力をあげる以外に、
 なにかほかの「風評被害対策」があるとでもいうのだろうか?
 「放射能」という言葉を狩る暇があるなら、
 「放射能」そのものの発生源をなくしなさい。
 「放射能」がこれ以上こどもたちとお母さんの口に入らないよう、全力をあげなさい。

2013年3月21日(木)【面白いようにわかるNHKと日本のマスコミの体質】

 NHKの堀潤アナウンサーが退職することになった。
 NHKが、彼の以下のようなツイッターでの発言を「懲戒」しようとしたためだという。
 NHKは「国民の生命、財産を守る公共放送の役割」がよくよく嫌いらしい。
 公共放送を目指す記者がいらないのなら、わかりやすく「御用放送協会」GHKと改名し、
 御用先からだけ受信料を徴収すべきだ。
 それとも視聴者が受信料支払い停止によってNHKを「懲戒」するのを待つのか。
 
RT
3月11日 震災から2年。原発事故発生のあの日私たちNHKはSPEEDIの存在を知りながら「精度の信頼性に欠ける」とした文部科学省の方針に沿って、自らデータを報道することを取りやめた。国民の生命、財産を守る公共放送の役割を果たさなかった。私たちの不作為を徹底的に反省し謝罪しなければならない

早速WIKIPEDIAにまでアップされていた。
「報道担当だったのが「きょうの料理」司会に異動が決まっていたが、これは福島第一原子力発電所事故報道における、局の方針を、ツイッターで批判した事が問題視されたと見られている。さらに懲戒処分を行うという情報もあった。」とのこと。

・NHK堀潤アナ「脱原発」で退職 上司と「最後の談判」つぶやいていた(J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2013/03/21170563.html
・NHKの堀アナが退職へ 原発映画製作で話題に(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013031901002490.html
・NHK:堀潤アナ退職へ(毎日)
http://mainichi.jp/select/news/20130320k0000e040108000c.html
・NHK堀潤アナが退職へ(朝日)
http://www.asahi.com/shimen/articles/SEB201303190080.html
・NHKの堀潤アナ、「一身上の都合」で退職へ(読売)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130319-OYT1T01280.htm
・NHKの堀潤アナが退職へ(産経)
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130320/ent13032008300001-n1.htm

【0322大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】大飯原発を停止せよ、大間原発の建設を中止せよ、全原発を即時廃止せよ!3/22(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年3月20日(水)【10年】
 イラク開戦の前夜、いたたまれずに「殺すな」と書いたボール紙をもって最寄りの駅頭に立った。10年前の今日、3月20日だったようだ。これから米軍の爆撃が始まり多くの人々が殺されようとしているとき、ほかに落ち着いてできることは思いつかなかった。はじめはひとりだったが、しばらくしたらその市の市会議員だという女性も数人の若者とやってきてハンドマイクの訴えも始まった。もちろん、訴えなくてもほとんどの人が大義なき戦争だとわかっていた。それでも日本政府はいちはやくアメリカを支持し、自衛隊を派遣して水運びをやらせたり、イラク人との交流のためと称して現地の人にはなんのことやらわからぬ鯉のぼりを青い空に山ほど泳がせたりした。
 その間も後も、イラクの人々は爆撃で殺され、突然家に踏みこまれて殺され、捕虜になって拷問されて殺されつづけていた。今日の新聞によると、あの戦争の米兵死者は4千5百人、イラク人死者は十数万人とされるが、今も続く自爆テロで殺され続ける人たちもあの戦争の犠牲者に入るだろう。報道ステーションでイラクの若い女性が、あの戦争で「いいことは何ひとつなかった」といっていた。
 いいことなどあるはずがなかったのだ。日本人だって最初からわかっていた。それなのに、人殺しへの支援表明のつまらない鯉のぼりをあげにいく自衛隊派遣さえ止めさせることができなかった。「殺すな」の役立たずのボール紙はタンスの陰にまだたてかけてあるが、10年前にあの青い空の下で生きていた十数万人はもうどこにもいない。

2013年3月18日(月)【うまい話の裏】
 個人的にはたいていの人が「うまい話には裏がある」と信じてまっとうに暮らしている。ところが、それが集団の話になると、たちまち「裏」のことを忘れていとも軽薄に、景気のいい、うまい話に乗ってしまう。それどころか、これでもか、これでもか、と何度「裏」を見せつけられても、なおも悪徳業者にすがってわずかなおこぼれにありつこうとするのだ。あるいは自分が羽振りが悪くなればなるほど、せめて他国にいばれるように、日の丸親方たちだけでも派手にやってほしいと思うのだろう。
 かくして「狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である」(ニーチェ)となる。

・福島第1原発で停電 使用済み燃料プール冷却が停止 
http://www.47news.jp/CN/201303/CN2013031801002263.html

2013年3月17日(日)【メタンハイドレード】
 仕事がひと山越したので1週間ぶりの更新だ。
 この1週間のうちに日本は一躍「資源大国」になり、新聞もツイッターもにわか成金の景気のいい話でにぎわっていた。天然ガスの採取成功で今後の見通しがたったことで、原発がすべて止まり、廃炉化作業が始めやすくなるのなら、まずはめでたいことだ。
 しかしもちろん、手放しでめでたがっていられることでもない。地下資源の採掘につきものの地盤沈下や、今でさえまにあっている地震津波のさらなる危険も懸念され、採掘によって大気中に放出されるメタンガスの温暖化への影響についても大問題とする説もある。アメリカではシェールオイルの採掘で地震が相当増えたらしい。
 鉱物にせよ生物にせよ、わたしたちの究極の祖先や太古の先輩を掘り返しては燃やし、それがなくなるまで人間だけ今だけいい目をみようという虫のいい考えに、先祖のたたりがないわけがないという気がする。
 できることならやはり太陽光や風力のような永遠に減らないエネルギーを未来に気がねすることなく使いたいものだ。それまではやはり省エネが心にも身体にも良さそうだ。
 12月以来の節電で、わが家の電力使用量はようやく月100kwhを切り、東電への支払いは連続3カ月、月2千円台で済んでいる。これでもまだまだぜいたくをしていて、もっといくらでも削れそうだ。さて、パソコンを切ろう。

2013年3月11日(日)【3・11】
 またそのうちに巨大地震が来るだろう。巨大津波も来るだろう。
 地震は止められない。津波も止められない。 しかし原発は止められる……はずだ。
  
2013年3月10日(土)【問いと答え】
 残雪がらみの仕事が猛烈に忙しいのだが、とにかく夜の部だけ5人の仲間たちと行ってきた。昼の暖かさがウソのようなひどい寒さにいたたまれず、それも終わりまでいないで引き上げてしまったが、それでも多少とも義務を果たした安堵感がある。そこに行って、無数の頭数のひとつになって、寒風の中にしばらく立って、ときどき暖めるために身体をゆすりながら「原発はいらない」「再稼働反対」と叫んだ。ただそれだけのことだが。
 Zさんにいえば、きっとまた「効果はあるの?」と訊かれるだろう。こちらはまた「さあ」というしかない。
 しかし、今急いでいる残雪がらみの仕事だって、学校の仕事だって、「効果はあるの?」と聞かれれば「さあ」と答えるしかない。それでもやっているのは、当たり前だが、「効果」があってほしいからだ。そしてその、もしかしたら答えが出るかもかもしれない何事かに自分で参与したいからだ。頭数のほんのひとつとしてでも
 わたしたちはまだZさんの問いへの答えを知らない。
 人類の自滅を、文明の自己破壊を、食い止められるのかどうかを知らない。
 だからこそ、繰り返し風の中に立っている。
 Zさんも自分で答えを出しにここに来てくれるよう祈りながら。

・「原発ゼロ、いま主張しないと」 各地でデモや集会
 http://www.asahi.com/national/update/0310/TKY201303100081.html
・田中龍作ジャーナル全国各地で「ノーモア・フクシマ」 日比谷野音は入場規制
・原発事故2年を前に仏独でも「反原発」デモ
 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5277282.html
・台湾で数万人規模の脱原発デモ
 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5277138.html

2013年3月7日(木)【故郷】
 人間は意外に強いものだ。これしかないように与えられていた生活の基盤が一挙に失われても、文字通り無一物になっても、密林や山野でそれなりになんとか生きていけたりする。とくに下のサイトの文中になぜかはめこまれていた数年前のカンボジアの「野人」少女。
 19世紀初めにはアヴェロンの野性児もいたし、20世紀にはグアム島で28年も原始生活をした横井庄一さんや厳寒期も含め北海道の「穴に隠れて14年」の劉連仁さんもいた。
 とことん追い詰められても密林や原野がそこに広がっていれば、生き延びようと本気で試してみる価値はあるということだ。今となってはなんだか不思議な感じがするが、そこはもともと私たちの故郷だったのだし、私たちの祖先はみなそうやって生きてきたのだ。
 その密林や山野を、なんとかこれ以上追い詰めずにおけないものか……。
 
・1980年に行方不明の旧ソ連兵、アフガニスタンで発見
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130307-00000028-jij_afp-int
8歳で行方不明になった少女、19年ぶりに発見される - カンボジア

【0310 原発ゼロ☆大行動】03/10(日)13時〜 東京・日比谷公園集合!デモと首相官邸前、永田町・霞が関一帯の大規模抗議行動!福島第一原発事故から丸2年、集会・デモ・抗議であらためてたたみかけよう!!ツイートボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=2415(【お知らせ】3月8日(金)の首都圏反原発連合呼びかけの官邸前抗議は、「0310原発ゼロ大行動」に向けて、ファミリーエリア以外の抗議エリアはお休みいたします。)

2013年3月5日(火)【大丈夫、死にはしない】

 大気汚染のただ中の中国の人たちから、放射能汚染のただ中の日本人に、ため息まじりの励ましの声がとどいている。お互い、わかっているのだ。「大気汚染」と「放射能汚染」、見えるほうがましか、見えないほうがましか、どちらがより危険か、より高級か、国民同士で汚染比べや不幸自慢をしてもはじまらない。結局は同じ構図だ。
 互いに、またそれぞれの国の中で、「半ばは犠牲、半ばは共謀、すべての者のように」(ボーヴォアール)。
 犠牲になるのをやめるには、共謀するのをやめるしかないのだが、
 どちらが先に共謀をやめられるだろう? どちらが先にやめ方を見つけるだろう?
 やめ方がみつからなければ、どちらも全然「大丈夫」ではないんだけど……。

・「PM2.5が熊本に…『大丈夫、死にはしない』『我々は生きる掃除機』と皮肉が殺到―中国版ツイッター」
 http://news.livedoor.com/article/detail/7470699/

2013年3月3日(日)【TPP】

 ツイッターでTPPについての実にわかりやすいビデオを拾った。このビデオ通りだとすれば、要するに、大企業の大企業による大企業のための恐るべき秘密協定ということだ。すでに国内大企業のための専用政府、専用マスコミをもっている日本が、これに加わって「国際化」すれば、さらに世界の大企業のいうなりにもならざるを得ない。 アメリカであれ、日本であれ、99%の人々にとって、残りの1%も生身の人間だとすれば、ひょっとしたら100%の人々にとって脅威となる内容だ。
 企業利益を最大にするためなら、人間の生命も健康も、まして人間らしい暮らしなどものの数ではない。この2年いやというほど見せつけられたあられもない企業原理による人間支配が国際化したところで、悪夢は深まり、個々の人間はいよいよ逃げ場なく疎外され、放射能とありとあらゆる廃棄物で汚染された陸と海に置き去りにされるだけだろう。
 いや置き去りではない。そうやって作ったものを、もっと買えもっと買えと励まされ続けるのだ。生命を代償に物を買えと。

 「アメリカ市民団体がTPPについて報道した驚異の内容とは」
 http://www.youtube.com/watch?v=HLVKAalmD48

2013年2月28日(木)【あっち向いてホイ】

 「あっち向いてホイ」というゲームがある。相手が指さす方を、つられて向いてしまうと負け、という例のゲームだ。元は祇園のお座敷遊びだったそうだが、近年は、それを毎日のようにテレビのアナウンサーやキャスター相手にやらされている。
 もういい加減飽きて休みたいのだが、やめようといってもむこうは全然やめようとしないし、気をぬくわけにはいかない。なにしろWIKIPEDIAによれば、これで勝った方が 「あんた馬鹿ね 大馬鹿ね 自殺して死んじまえ」というのまであるというのだ。しかも、私たちが毎日テレビ相手にやっている「あっち向いてホイ」が、どうやら、まさにその恐怖のゲームのようなのだ。
 もうすぐ丸二年。
 
 【0301大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】大飯原発を停止せよ、大間原発の建設を中止せよ、全原発を即時廃止せよ!3/1(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397
 【0310 原発ゼロ☆大行動】03/10(日)13時〜 東京・日比谷公園集合!デモと首相官邸前、永田町・霞が関一帯の大規模抗議行動!福島第一原発事故から丸2年、集会・デモ・抗議であらためてたたみかけよう!!ツイートボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=2415
 
2013年2月24日(日)【雪】
 残雪の翻訳の検討会で仲間たちと軽井沢の研修所に行った。久しぶりに軒から下がる1メートルを越えるつららを見、帰り道で積もりたての新雪の中を歩いた。日差しの下の粉雪の新雪はほんとうに美しく、手袋を取ってすくってみた。子どものころからの習慣で、ついそのまま食べたくなったが、結局やめた。
 長野で、新潟で、福島で、子どもたちはどうしているだろう。この世のものとは思えない純白にきらめく雪を、なにか怪しいものを食べるようにこっそりひと口食べたりしているのだろうか。だが、悲しいことに、あの美しいつららにも雪にも、この世のものが混じっており、ほんとうに怪しいのだ。
 もちろんこの国ではすでに、将来にわたって放射線被爆によって病気になったり死んだりする人は、ひとりもいないことになっている。ある人の死が100%被爆のせいだという証明は永遠に不可能だ。そこで「レベル7」の原発事故にもかかわらず、この国の人は全員が、あれやこれやの生活習慣や他の「私病」、あるいは、北朝鮮の核実験や中国の大気汚染や、これからだれかが思いつく別な原因で死ぬことになるのだ。
 子どもたち、どうか、雪を食べないで! 雪よりもっと怪しいものをすでにたくさん食べさせられているとしても。
 
・RT:染森氏:作業員が宿舎で死んでいた。協力企業は、お伺いを東電にする。東電は「それ私病じゃないですか。」聞かなかったことにする。はい、おしまい。 ( live at )
(画面外側の「 FPAJ主催 染森信也氏(看護師・元福島第一安定化センター」 をクリック。59分ころから)
・みーゆ(miakiza20100906)さんによる低線量被曝とDDREF、チェルノブイリの健康被害および集団線量から被害者数を予測する事の妥当性の考察 http://togetter.com/li/446246

2013年2月20日(水)【若者たちのふたつの考え】

 どうせ死ぬんだから、死んでみようか。
 どうせ死ぬんだから、生きてみようか。

・WE ARE THE THREE http://www.youtube.com/watch?v=kROFCjoWcYw

2013年2月19日(火)【「田舎者」と「都会人」】
 このところ、残雪研究会のメンバーとともに今夏平凡社から刊行予定の残雪短編集『かつて描かれたことのない境地』と、『残雪研究』5号の準備に追いまくられている。
 このページの更新もとどこおりがちになりそうだが、乞うご期待!
 もちろん、「田舎者」たちの物語だ。
 ただ、その「田舎者」は一生を掟の門前で過ごしてしまうほど慎み深くはない。
 しきりに中をのぞき、図々しく入って見ようとさえする。
 魯迅風にいえば「馬鹿」になろうとする者たちの物語だ。
 もとよりスマートな「都会人」、当たり障りのない「賢人」に、わざわざ語るほどの物語があろうはずもないが。
 
2013年2月17日(日)【掟の門】

 たとえば、会社であれ役所であれ学校であれ、組織の門の中にいると、自分はその組織のためにいるのだという気分にどうしてもなりがちだ。
 しかし門を一歩外に出ると、その組織は自分のためにあったのだということをようやく思いだす。
 問題は、そのことを忘れたり、忘れたふりをしたりせずに、もう一度門の中に入っていけるかどうかだ。
 幾重にも奥へ奥へと連なる、恐ろしい衛兵の見張る門。
 ひとりひとりの前に立ちはだかるカフカの「掟の門」とはそういうことだ。
 臆病な田舎者はやはり自分ただひとりのためのその門の前で、中をのぞきながら一生を過ごすしかないのだろうか。
 
2013年2月15日(金)【ふたつの動き】
 ・今夜は首相官邸ではなく、ツイッターで見つけた近場の駅頭抗議に初めて行ってみた。
  10人いるかいないかのささやかな抗議に加わり
  主催者のチラシ配りを手伝いながら「原発やめましょう」と道行く人に声をかけると、
  チラシを受け取らなくても、半数以上の人がかすかにうなずいてくれるのに気づいた。
  みな原発をやめないとだめだということくらいわかっている。
  10人が駅頭でチラシまきをしてもやめられないのもわかっている。
  わからないのは、では、どうすればやめられるかだ。

 ・桜宮バスケ部顧問に「寛大な処分を」 1100人嘆願書にネットで批判噴出
 「自殺した生徒は助けなかったのに、どうして体罰を続けた顧問をかばうのか」
 「卒業生やバスケ部OBは、体罰による誤った指導が「当たり前」のようにすりこまれて、
 生徒が自殺したのを「異常事態」だと感じていないのではないか」
http://news.livedoor.com/article/detail/7414822/

2013年2月14日(木)【自由への道】

 「賢人と馬鹿と奴隷」について、魯迅は「中国には馬鹿が少なすぎる」と嘆いていた。
 今の日本も、あっちもこっちも事なかれ主義、すべて他人ごとの「賢人」だらけ。
 その数に比べれば奴隷小屋に本気で風穴を開けようとする「馬鹿」の数はあまりにも少ない。
 なぜだろう。
 「馬鹿」が「賢人」にもどるのは実に簡単だが、
 「賢人」が「馬鹿」になるためには、どこかで馬鹿になってかからねばならないからだ。
 もとより「賢人」と「馬鹿」は紙一重のはずだが、その薄紙をこっちからあっちへと破り、一歩を踏み出すのが、
 なんと難しいことか。

・【0215大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】大飯原発を停止せよ、大間原発の建設を中止せよ、全原発を即時廃止せよ!2/15(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→
 http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年2月11日(月)【奴隷研究と自由研究】
 
 いつのまにか、魯迅を読むのにふさわしい時節が来ていた。
 魯迅の痛烈な風刺と万遍ないユーモアは、自分が奴隷だと気づいた人にしかわからない。
 自分が奴隷だと気づき、なんとか自由になりたいともがき始めたとき、
 彼の奴隷研究の書は初めて自由研究の書となって、読者の前に全貌を現す。
 そのひとことひとこと、一行一行の意味が……
    魯迅 「賢人と馬鹿と奴隷」拙訳

2013年2月9日(土)【奴隷の出世】

 ひとりは第一次安倍内閣時の文科相
 ひとりは五輪柔道二連覇、フランスの元スポーツ相
 体罰への見方はずいぶん違う。
 ドイエ氏も右派の政治家らしいが、フランスの右派は奴隷調教は嫌いらしい。
 彼我の差はやはり伝統文化か。
 市民革命を果たした誇り高い人々の子孫と同じ人権感覚を、
 日本の元文科相に求めるのは酷なのかもしれない。
 ドイエ氏は体罰を受けたことがないが、
 伊吹氏はかつて悲しい調教奴隷のひとりだった。
 その後出世した。
 つまり、奴隷調教者になり、それによって、嫌な思い出をぬぐい去ったのである。
 「戦争直後の教育を受けたので、私もだいぶ殴られた。しかし、嫌な思いは残っていない」 のだそうだ。
 
・「体罰を全否定、教育はできない」…伊吹衆院議長(元文科相)
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130209-00001046-yom-pol
 ・【柔道】五輪V2ドイエ氏糾弾「体罰はフランスなら即法廷
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130209-00000058-sph-spo

2013年2月8日(木)【真っ暗なウソ 絶賛 再ヒット中】
 ずっとウソだったんだぜ。やっぱバレてしまったな。原子炉建屋は真っ暗です
 斉藤和義 http://www.youtube.com/watch?v=b01yohRgfyc
 
 東電の企画部長とやらの、事故調査妨害のための開き直った電話の声を聞いた。
 「中は真っ暗」「道に迷えば高線量」「ガイドはしない」……
 すべては地震でなく津波のせいと言い逃れるため。
 骨の髄までならず者体質。
 こんな人たち、「ずっとクソだった」こんな会社に今も生命をあずけている……

東電、国会事故調にウソ 「原発内真っ暗」→調査断念。 (左手に【動画】虚偽説明の音声
・事故調の田中元委員「国会を愚弄」 東電虚偽説明で
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG07044_X00C13A2CR8000/

【0208大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】大飯原発を停止せよ、大間原発の建設を中止せよ、全原発を即時廃止せよ!2/8(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年2月7日(水)【伝統と文化】
 
 そういえば中学校で、「わが国固有の伝統と文化」武道が昨年から必修になっていたのだった。
 相撲界と柔道界の前近代的体質はすでに露わになったが、剣道界もそうなのだろうか。
 伝統武術はいずれも警察との結びつきも強い。警察組織内に暴力的体質は温存されていないのだろうか。
 わが国の力による支配・服従の「伝統と文化」をこれ以上子どもたちが学ばずにすむよう祈るばかりだ。

・RT 
 中学校武道必修化の名目が「武道を通じて日本の伝統と礼儀の正しさを学ぶ」らしいんだけど、今の女子柔道の状況に照らし合わせてみると、なんという皮肉だろう、とか、どの口で言う、とか、誰もが思うんじゃないかな。刷新というのは簡単だけど、そんなレベルで片付きそうにもないしね。

・RT 
 安倍ちゃん前の政権の時に「日本の伝統と文化を尊重させるため」教育基本法改正して、去年から中学校で武道必修化なんだよな。柔道、剣道、相撲から選ぶんだっけか。伝統と文化を高いレベルで修めた柔道金メダリスト内柴正人さんと園田隆二女子代表監督に続いてほしいね。

・RT  
 園田隆二元日本女子柔道代表監督、徳野和彦コーチ、強化担当の吉村和郎氏はみな警察出身。何人かの元警察官から意見を聞いた。彼らは犯罪者を直接的に取り調べるという経験はないのかもしれないが、容疑者に対して「命令と服従」を要求する警察の基本的体質が、選手に対しても出たのだろう、と。

2013年2月6日(火)【歴史は動くか?】

 日本の文化と社会の病理はみなここに根があったにちがいない。灯台もと暗し。身近すぎて、大きすぎて見えなかったすべての原因。
 権力への無条件の服従を子どものときから「教室」で身体にたたきこまれ、殴られながらそれを自分のためだとありがたがり、殴った者を殴り返さずに擁護し、代弁し、やがてなり代わってより弱い者を殴る。
 被爆させられながらさせる者を擁護し、職を奪われながら奪う者を擁護し、しまいには戦争に駆り出されて殺されながら、駆り出し殺す者を擁護し「万歳」を唱えかねない。
 今やこの無限サイクルの仕組みがようやくはっきりと見えてきた。暗い、いやな、屈辱の記憶とともに。
 歴史は「教室」の壁を破って動きだすだろうか?

・RT  
 学校での体罰は自分だけでなく同級生が受けた事でも覚えているものだなと。学級という閉じられた空間での体罰は他の子どもに見せしめ的な効果もある。見せられた子どもは屈服するしかない。そうして子ども達は暴力や恐怖で人を支配できることを学ぶ。

・RT  
 女子柔道の件、歴史が動く時ってこういう事かなと見てる。大相撲、オリンピック招致、桜宮高校、ロンドンの失敗、そういう諸々が重なって政府まで大騒ぎして見せてるし、実際に変化は残るだろう。違うタイミングだったらもみ消されていた可能性が高い。さらにスポーツ界全体にも広がるのかも。
 
2013年2月5日(月)【闘士たち】
 公表された女子柔道選手の訴え全文をじっくり読んだ。ひょっとしたら歴史的文書になるかもしれないじっくり読む価値のある内容だ。さすが野性のにおいのする女子柔道の闘士たち。改めて心からの敬意を表したい。
 他の諸組織も、男子も、この機に勇気を出して後に続き、どんどんことを荒立て、膿を出し、日本社会の根深い前近代性を打ち破ってほしいものだ。

・「私たちの声、内部で封殺」 女子柔道選手側の訴え全文 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/sports/update/0204/TKY201302040293.html?tr=pc 
・柔道指導員の一新を要求 選手側会見「誇り汚された」 http://www.asahi.com/sports/update/0204/TKY201302040273.html

2013年2月3日(日)【奴隷研究】

 奴隷研究の第一人者といえば、私の知る限りではやはり魯迅だ。
 彼にいわせれば、漢族の歴史にはふたつの時代しかなく、それが循環するだけである。

 一.奴隷になりたくてもなれない時代
 二.当分安全に奴隷になりおおせていられる時代

 同じ東アジアで、しかも「一治一乱」の「乱」さえめったに起きない島国日本では、
 二の「奴隷の春」が今も延々と続いている。
 ブラジルでは殴られたら殴り返すらしいが、日本では殴り返すどころか、かえってありがたがる。嗚呼
 
 体罰は根絶できるのか? 根深い「愛のムチ信仰」
 http://www.asahi.com/national/update/0203/OSK201302030039.html

2013年2月2日(土)【恥】

 北海道で震度5強。 私たちは間に合うだろうか? 調教奴隷の夢から醒めて私たち自身と子どもたちを救うのに。

・RT 
 体罰が公然と認められる国がオリンピック招致とか世界中に恥晒すだけだろ

・RT 
 何で外国の人に言われるかな。恥ずかしいわ。 “(国際柔道連盟)ビゼール会長は「(暴力は)われわれのスポーツの礎を築いた嘉納治五郎師範が説いた精神と理念では決してない」と批判。”

・RT 
 「目前の危機に世界中が懸念」する中、当の日本は再稼働に躍起() 汚染水も海に大量放出で世界に大迷惑() RT: 4号機の危機解決法がない!4号機プールに懸念=福島第1原発事故調の有識者会議(時事通信)

・RT 
 「国境無き記者団」による日本の報道自由度と民主主義度が、原発報道に関し「censorship」あり、「kishaclub system」が改革を妨げているとして順位を韓国やアフリカのブルキナファソなどより下げられている。マスコミの記者たちは何も感じない?記者クラブ制度は恥!http://togetter.com/li/447923

2013年2月1日(金)【調教の文化】
 
 そう、どうして日本ではだれも殴り返さないのだろう? 
 あれだけ侮辱されて、人格も尊厳も踏みにじられて、なぜおめおめと黙って耐えてきたのだろう?
 なにがサムライだ。いや、サムライとはもともとそういうものか?
 だんだん問題の核心が見えてきている。
 サッカー解説者のセルジオ越後氏がいうとおり、「体罰は日本の文化」なのだろう。
 日本では人は、調教されて育つ。
 つまり、日本の文化は調教された奴隷たちの文化であり、奴隷たちを調教する文化だということだ。
 それが文化だとすれば。

・RT 
 セルジオ越後「サッカーではないけれど、プロスポーツの世界にも、いまだに“鉄拳制裁”をする名物監督がいる」 (体罰)が行なわれているのは日本と韓国など東アジアくらいだ。ブラジルで先生が手を上げようものなら、生徒が殴り返す

・RT 
 ブラジル出身でサッカーの世界で生きてきたセルジオ越後によると、ブラジルで指導者が暴力と使えば殴り返されて乱闘になるという。正常な反応だ。つまり日本が異常だということ。

・RT 
 いじめ問題にしても体罰問題にしてもブラック企業問題にしてもAKB48問題にしても、日本には奴隷そのものは存在しないのだけど、人を奴隷的精神状態に落とし込む手法だけは素晴らしく発達した国だなぁという印象を持つ。


2013年1月30日(水)【皆、いいよね!  うん!?】

・会田誠新作2012年  「考えない人」像
http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-bd69.html

・RT 
 「首相、もう事故は収束し被害はなかったことになっております。原発について政府もTVも話題にしなければよいのです。国民はじっくり時間をかけて骨抜きにしてありますゆえご心配には及びませぬ」「電通屋、お主もワルよのう」安倍首相・所信表明演説 

・RT 
 多分、もう大地震とか来ないと思う。だから津波の心配もないし、4号機建屋も多分、ギリギリ壊れない。多分、汚染も大丈夫だし、健康被害とかも多分ないと思う。だから出来るだけ早く、原発は再稼働するし、新設もする。皆、いいよね! …なんだか変な文章。でも今って、こんな感じだね…。

・【0201大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】大飯原発を停止せよ、大間原発の建設を中止せよ、全原発を即時廃止せよ!2/1(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年1月28日(月)【この国のイメージ】
 
 いちばん話が早いのはやはり絵だろう。
① みんな死んでるじゃないの……えっ、生きてるの?
  会田誠「灰色の山」
  http://fukuhen.lammfromm.jp/?p=5419 (フクヘン)中の絵をクリックすると拡大
② 見ているうちに息苦しくなり、こういう気分に……
  《一人デモマシーン(サラリーマン反対)》2005年 (C)AIDA
  http://www.oricon.co.jp/photo/actor/383/14/
③しかし、そういえば、私も……

2013年1月27日(日)【事実上の軍事衛星】

RT
(1)「事実上のミサイル」と「事実上の偵察衛星」の違いを述べよ。(5点)
・ (朝日)
・ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130127/k10015092371000.html(NHK)

 先日の日本の報道では、ほとんどが北朝鮮「ミサイル」の打ちあげ成功としていたが、ツイッターによれば、諸外国の報道では、ほとんどが「人口衛星」「ロケット」としていたらしい。
 上記のテスト問題では満点を取れそうもないが、どちらもつまるところ軍事目的だということはわかる。そして、日本が少しずつ、「事実上の軍事国家」への道を歩き始めているらしいということも。

 防衛予算:400億円増…人件費、尖閣警戒監視など 「防衛関係費の増額は11年ぶり」
 http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20130128k0000m010061000c(毎日)

2013年1月25日(金)【閉ざされないために 】
 3・11以降、いやでも気づかざるを得なかったことのひとつが唖然とするほどの日本の閉鎖性である。それは政府や財界となれ合った日本独特の記者クラブ制度から生み出される横並びで、自己規制的、画一的なマスコミ報道の賜物だ。
 もちろん、インターネットを利用できる人は関心と時間さえあれば、マスコミで報道されない情報にいくらでもアクセスできるが、ネット環境と関心と時間をあわせもつ人はいうまでもなく少数派だ。しかも言葉の壁のせいで、国外の生の報道に自在にアクセスできる人となれば、ほんとうにわずかだろう。
 マスコミはそれをいいことに、だれもが知りたい事実や原因の究明も責任の追及もろくにしないまま、「がんばれ日本」式の情緒でこの国をすっぽり包みこんで、国外からの厳しい見方や異論や疑問はほとんど報じず、報じても埋め草程度だ。
 テレビのどのチャンネルを回しても、どの新聞を見ても、同じような優先順位で、同じような口調で同じニュースが流されるこの日本語鎖国の島国に、国外の見方は申し訳程度にしか入ってこない。それも日本株式会社に都合のよいものがほとんどだ。
 この国の鎖国状態がどれほどのものかを改めて知るためにも、もっと国外の見方を知りたいと思う。ありがたいことによいサイトと「本」(『世界の原発世論』2012第1巻 PDF版500円)がある。随分前から各国の記事を丹念に拾い、翻訳していた「星の金貨」プロジェクトが、その膨大な翻訳記事を読むための手引書を刊行してくれている。ダウンロードして興味のある記事概要のURLをクリックすると全文の翻訳に飛べる便利なものだ。これはお勧めできる。

・星の金貨プロジェクトhttp://kobajun.chips.jp/
(サイトにはこんな新しい記事も)
RT: 電力不足?【 ドイツ国内の企業、『脱電力会社へ!』 】「フォルクスワーゲン社、2013年使用電力の75%を自家発電に」ドイチェ・べレ(ドイツ国際放送) -記事の全文翻訳は【星の金貨】で →  


2013年1月24日(木)【私たちを救うために】
 福島原発事の後、置き去りにされ、人間が餌と水を持って現れるのを今か今かと待ち続けて死んでいった家畜たちのことが頭から離れない。一生そうだろう。
 人間においしく食べられるために、身動きもろくにできない場所で飼われ、殺される家畜たちにとって、日々の唯一の楽しみは餌を食べることだったはずだ。野生の動物の楽しみをすべて奪われた唯一の代償が、毎日餌をもらえることだったのだ。
 それなのに、私たちは事故の後、あの従順な、やさしい目をした動物たちの唯一の楽しみさえ奪ってしまった。近くの木の柱が細くなるまで、死ぬまでかじりつづけた牛もいたというが、たいていの牛はそんな柱にさえとどかず、鉄柵の中で糞尿にまみれて死んでいった。
 許されない罪を負ってしまった私たちにとって、唯一の救いは、生き残った牛を救い出し、食べるためではなく、生かすために生かしてくれている勇気ある人たちがいることだ。
 その中心となっているのが希望の牧場。ツイッターの自己紹介にはこうある。
 
 「希望の牧場・ふくしま」 代表:吉沢正巳 活動内容:警戒区域内に取り残された被ばく牛の保護・飼育、自身の被ばくを顧みず牛の世話を続ける農家の支援、原発事故の生き証人・牛とともに原発を乗り越える世の中を目指します
 
 国の殺処分方針に反して「原発事故の生き証人」である300頭の牛を飼い続ける希望の牧場には、当局から有形無形の妨害、嫌がらせが続いており、殺処分も延々と執拗に続いている。
 全国民に代わって福島の家畜への償いを続け、私たちの永遠に消えないやましさを和らげ、良心を救ってくれているこうした方々への支持支援は、残念なことに、あまりにも足りない。この方々を孤立させ、絶望させてしまうようでは、私たちも、この国も、本当に救いがなくなってしまう。(御支援は以下ぺージ右下「サポーター基金」)

・「住んでるよ」http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2013/01/post_0e12.html(希望の牧場)
・警戒区域の牛、12年末までに1300頭殺処分
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2400I_U3A120C1CR0000/
・【0125大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】対新政権!2013年も抗議!大間原発の建設を中止せよ、大飯原発を停止せよ、全原発を即時廃止せよ!1/25(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年1月23日(水)【牛が走っている!】
 福島警戒区域のある牛舎、60頭のうち、生き残った3頭のうちの一頭。
 餓死を逃れ、殺処分を逃れ、もちろん食肉にもされず、
 「常時なら走ることなど出来なかった牛、それが今は走っている」
 写真集 『待ちつづける動物たち』『残された動物たち』のカメラマン、太田さんのブログより。
 http://ameblo.jp/uchino-toramaru/entry-11454869845.html
 ガガを希望の牧場に預けているやまゆりファームのお腹の減ったががちゃんで、走る姿が見られます。
 やまゆりファームへのご支援はブログ左側。

2013年1月22日(火)【新機能・新サービス】
 NHKでテレビが売れないというニュースをやっていた。あたりまえだろう。地デジ化で無理やり買い換えさせられた後に、減ったとはいえ、それでも新たに買う人がいたことのほうが驚きだ。しかし、「売れない」ことがニュースになっている。それは困ったことなのだ。
 世界のあちこちから大量の様々な原料を調達し、大量の石油やガスやウランを調達し、大量の電気を使って、大量に人手を減らして合理化し、大量の製品を作って、大量に売りさばかないとメーカーはやっていけないのだ。だから「需要を呼び起こす新しい機能やサービスの開発が課題となっている」のだ。
 いやはや、もう勘弁してほしい。一昨年仕方なく買い換えたときの分厚い説明書さえまだ読んでいない。先日リモコンのあるボタンをまちがって押して、画面に番組表が出るのにようやく気づいたばかりだ。 たいていの家電製品は「新しい機能やサービス」がつけばつくほど使い勝手が悪くなる。ボタンがやたらに増え、直感で使いこなせない。ファックス電話も、CDラジカセも、もらいものの置き時計さえ、説明書を読まないと使えず、しかもすぐ忘れるので、ことあるごとに読み返さないといけない。
 こんなことにばかり頭を使い、時間を取られていては、肝心なことを考える暇がなくなってしまう。
 だれも欲しがってもいない物を売りつづけるために命懸けで資源を奪い合ったりせずに、どうすれば人は、まっとうに生きていけるかを。

2013年1月20日(日)【代償】
 エネルギー問題の闇をまたしても見せつけられる事件だ。武装集団は外国人の人質を情け容赦なく射殺しながら、アルジェリア人のムスリムである従業員には「こわがらなくていい」と慰めて放免したという。
 天然ガスプラントはアルジェリアの企業ではなく外資だった。アルジェリア人より豊かな外国人が、豊かでありつづけるために、さらに豊かになるために、アルジェリア人の資源を吸い取り、その利権を守るために、紛争にまで介入し、攻撃してくる。自分たちの資源を収奪するために、自分たちを殺しに来る。そう見えたのだろうし、たぶんそうなのだろう。これまで幾度となくくり返された中東戦争も、リビアへの欧米の軍事介入も石油利権が大きくからんでいた。
 日本が輸入する石油やガスも、他国の人々とそしてこの度はついに日本人も流した血に染まっている。
 尖閣諸島や竹島の問題もつまるところ石油資源の問題だ。
 この度の邦人人質殺害で、エネルギー資源は血をもって購うしかないという流れが速まるのを恐れる。
 血で石油を買い、被爆でウランを買う? 命で電気を買う? なんのために?

2013年1月19日(土)【署名要請 集団主義を乗り越えるために】
 福島原発事故の背景に、日本国民の「権威を疑問視しない、反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性」があったことは確かだろう。しかしそれはあくまでも背景にすぎない。国民ひとりひとりがこぞって事故を起こしたわけではない。
 日本の学校に未だに体罰が横行しているのもこうした国民性を背景としているが、個々の事件に国民ひとりひとりが責任があるわけではないのと同様だ。
 7月6日付英タイムズ紙は事故調報告書をこう批判していた。 「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」
 ブルームバーグ社説にはこうある。「日本の『集団主義』のせいにしたり、はたまた『この事故の責任を負った者と同じ職務にほかの日本人が就いていたとしても、同じ結果だった可能性は十分ある』などと指摘しているのは責任逃れであるとともに陳腐な言い訳に過ぎない。」
 私たち一般国民にももちろんそうした「背景」を構成し、沈黙していた倫理的な責任はある。しかし、その倫理的な責任は、多くの危険と警告を無視して原発を推進してきた個々の責任者を免罪することによってではなく、その責任を追及することによってこそ取るべきだろう。
 事故が起きれば自分が刑事罰を受けねばならないと知っていれば、個々の責任者の判断は当然、より慎重にならざるを得ず、組織の歯車でなく個人としての判断にならざるを得ない。刑事責任追及の前例は、むしろ、今後各組織の責任者となったひとりひとりの人が集団主義を乗り越え、堂々と人命を守る倫理的な判断をくだす根拠となるとともに、組織から自分の良心を守る保証とさえなることだろう。

・福島原発告訴団では「福島原発事故に関し、厳正な捜査と起訴を求める署名」を行っています。
・【拡散お願い】緊急署名始めます!
http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/2013/01/blog-post.html
【拡散お願い】ネット署名始まりました!
http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/2013/01/blog-post_17.html
・「日本文化」を原発事故の言い訳にするな-ブルームバーグ社説
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M6VH6L6JIJUO01.html

2013年1月17日(木)【いつか来た道】
 事実を事実と認めると「非国民」とされ、「国賊」呼ばわりされるあのいつか来た道を、日本は本当にまたたどり始めたようだ。検索したらツイッターも「国賊」の罵倒で沸きに沸いていた。
 歴史も原発も、過去も現在も、嘘でかためた、あの恥知らずな正当化と無責任な楽観。このいつか来た道がこのまま行けばどこにたどりつくかをわたしたちはすでに知っている。その知っているわたしたちが「非国民」呼ばわりに抗して語る勇気をもたなければ、本当にそこにたどりつくしかないのだろう。  

・鳩山元首相、南京虐殺記念館で謝罪=中国メディア、大きく扱う
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013011701024
・「国賊」という言葉が一瞬…鳩山発言に防衛相
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130117-OYT1T01730.htm?from=main5

・日本前首相鸠山由纪夫对南京大屠杀表示道歉
http://world.huanqiu.com/regions/2013-01/3515790.html (環球時報)
・鸠山由纪夫为南京大屠杀道歉 签名改“友”字
http://world.gmw.cn/2013-01/17/content_6409554.htm (光明日報)

2013年1月16日(水)【レ・ミゼラブル】
 歳をとって10年も映画館にいっていない老母といっしょに昨日ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」を見に行った。私は暮れにも書いたように昔からこの原作小説がお気に入りなので、物足りないのではないかと少し心配もしていたが、期待以上のできばえだった。
 大好きな人形のプレゼントの箇所はさらりとしか触れてないが、2時間半では仕方がない。それよりもあれだけはしょりながら原作をゆがめることなくよくまあこんなにツボを押さえきったものだ。6月動乱の市街戦場面も見事だったし、要所要所で高みから世界を俯瞰するシーンも決まっていた。
 ストーリーも歌も素朴で骨太で力強い。映画を見た後にこんなに澄んだ高揚感が残るのは久しぶりだ。今この時代にわたしたちがいちばん必要としているもの―勇気―がストレートに謳われていたせいだろうか。
 まだ見ていない方、若い人はもちろん、年寄りにもお勧めだ。「生きるのは充分だ」が口癖の、まもなく88歳になる母は10年ぶりの映画に、一日たっても良かった良かったといいつづけてくれた。母も、たぶんだれでも、実は勇気が好きで、ロマンが好きで、まだ生き足りてはいないのだ。

金曜です。【0118大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】対新政権!2013年も抗議!大間原発の建設を中止せよ、大飯原発を停止せよ、全原発を即時廃止せよ!1/18(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=2397

2013年1月15日(火)【関連と解釈3 影射】
 中国広東省の『南方週末』の記事が当局に改ざんされた問題で、朝日デジタルに李承鵬氏の記事がしきりに載っている。9日付の「改ざん『新聞にウソ言わせた』中国のブロガー李承鵬氏」にはこんな引用があった。

「今の中国に必要なのは真実を語ってくれる新聞だ。なぜなら真実を語る権利は、人の尊厳そのものだから。世界から尊敬される大国には、本当のことを語る新聞がある。」

 多くの読者は上の文の「中国」を「日本」に読みかえられることにたちまち気づく。
 もしかしたら、この新聞記者も、そのつもりで書いているのかもしれない。
 甲を借りて乙を指すほのめかし、あてこすりを中国語では「影射」という。
 筆禍を避けるために、昔からよく使われてきた方法だ。
 日本でも、「真実を語る」ことへの恐怖がじわじわと広がっているのだろうか。

・南方週末問題「恐怖感じるが伝える」 人気ブロガー襲われるhttp://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201301140451.html
・中国のブロガー「書き続ける」 南方週末事件で襲撃被害tp://www.asahi.com/international/update/0115/TKY201301150390.html
・改ざん「新聞にウソ言わせた」 中国のブロガー李承鵬氏
http://www.asahi.com/international/intro/TKY201301080491.html?id1=2&id2=cabdabaj
李承鹏 新浪博客(中文)
http://blog.sina.com.cn/s/blog_46e7ba410102e9k0.html

2013年1月14日(月)【関連と解釈2 もうひとつの闇】
 民族差別も排外主義もたいていの国にある。偏見に満ちた幼稚で暴力的なことばで他の民族を侮辱し、貶め、思いつくかぎりの罵詈雑言を浴びせる。ネットでは見慣れた光景だ。
 そういう人たちが新政権のもとで元気づいたのか、また徒党を組んで東京の街に繰り出したようだ。彼らの言動は、今のところ多くの人のひんしゅくを買い、それが一部で報道されてもいる。
 しかし、その幼稚な主張の影響力を幼稚だからと見過ごしていれば、そのうちに、眉をひそめる人々のおのおのの「持ち場」にそれが暴力的に押し寄せてきそうな気がする。9月11日の脱原発デモで、あの人たちが叫ぶ憎しみに満ちたことばを私も耳にした。そして少なくともあのとき、警察は彼らの側に立っていた。

・「差別はネットの娯楽なのか(9)――新大久保で反韓デモに遭遇した若者たち『日本人として恥ずかしい』」
http://news.livedoor.com/article/detail/7313045/
・週刊金曜日で鈴木邦男氏が証言した「在特会と公安警察は一体」というのがよくわかった、9.11新宿デモ逮捕劇!
http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-1192.html(日々坦坦)

2013年1月13日(日)【関連と解釈】
 この世の中、たいていのことは互いにつながっている。そんなことはもちろん以前から多少ともわかっていたはずなのだが、3・11、とりわけ福島の原発事故後の「わかり方」は、以前とはちがうレベルになってきている感じがする。 少なくとも観念的なことからより実感に近づき、他人ごとからより自分のことへ、多少とも自分の自由と責任に直に関わることになりつつある。

 ・なぜ大地震が近づいているのに、政府は原発再稼働に前向きなのか?
 ・なぜ大地震が近づいているのに、都知事はオリンピック招致に浮かれているのか?
 ・なぜこうした暴力とファシズムのにおいのする政治家が高い支持を得るのか?
 ・なぜこの期に及んでも沈黙し、「大勢」に順応しようとする人がこんなに多いのか?

 おそらく、少しでもものを考える人なら、すでにこうした問いの答えは知っているし、その答えをもとに、事態を改善し、この世界の暴力にこれ以上加担しないために、できるだけのことをしようと思っているだろう。
 ことがこの国の根深い文化の問題であり、自分を含む人間の成り立ちそのものに関わる以上、改善も改造も容易ではない。結局のところ、これもすでに以前から知っていた答えにもどるしかないのだろう。
 それぞれが自分の持ち場でできるだけのことをしようと。
 しかし、以前と違うのは、時間が差し迫っていることだ。この切迫感はわたしたちに、以前と同じ答えについて、違う解釈を迫ってはいないか? たとえば「持ち場」の広さについて。あるいは「できるだけのこと」の中身について。

2013年1月10日(木)【子ども収容所列島】
 私が半世紀前に見たと同じような暴力と辱しめ、人権と人間の尊厳の蹂躙が、今も続いている。
 これ以上、日本じゅうの学校で無抵抗な子どもたちが殴られ、恥辱にうめき続けるのを、大人は許してはならない。
 強制収容所から逃げられない子どもたちを救うために、見まわし、監視し、抗議し、告発しよう。

・刑法208条(暴行) 暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
・刑法204条(傷害) 人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

・学校教育法第11条  校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、 文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を>加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

・体罰で生徒の鎖骨折る…都教委、中学教諭を処分:「就寝時刻を過ぎても話をしていた2年生の男子生徒6人に、顔を平手で殴る」 たった減給10分の1(1か月)の懲戒処分。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130110-OYT1T01368.htm?from=tw
・副顧問、体罰を黙認 大阪・高2自殺 顧問に異論挟めず:「なぜボールを取りにいかないのか」と男子生徒の顔をたたく」
http://www.asahi.com/national/update/0110/OSK201301100105.html?tr=pc

2013年1月9日(水)【運動場】
 小学校から高校まで、教員が生徒を平手や出席簿で殴るのを何度も見た。たいてい教員は「○○出てこい」、「○○立て」といって、全員の前で、その無抵抗な生徒を殴った。運動場や教室は静まり返っていた。醜悪な権力誇示のショーだった。 
 そのショーを見ることを強要された生徒のほとんどは、おそらく私同様、屈辱感と恐怖と怒りに打ちのめされていたはずだが、みな抗議の言葉も知らず、じっと黙ってうつむいているしかなかった。黙って出て行き、無抵抗で殴られ、黙ってもどってきたその不運な生徒は、明日の自分である以前に今の自分だった。
 その数人の教員の顔は今でもはっきり覚えている。小学校の運動場で騒いでいた男子生徒を殴ったあの教員は、クラス担任でもなかったので名前は忘れたが、四角い顔で髪を七三に分けていて大柄で、そのとき紺色のセーターを着ていた。
 彼がああして一罰百戒の見せしめとして生徒を殴ったのはたしかに「教育」だったのだろう。自分がいつでもだれかの思いつきで殴られ、無抵抗で耐え、黙ってもとの場所にもどるしかない奴隷の分際、家畜の分際でしかないことをひとりひとりに教育していたのだ。あとは生徒は空気を読んで、目立たず、騒がず、息をひそめているだけだ。
 そしてどうやら日本じゅうの学校に、今も「彼」は配属されていて、同じ奴隷化教育を熱心に続けているらしい。
 どうりでみんな、おとなしくじっと黙っているわけだ。この広大な、放射能まみれの「運動場」で。
 死によって教員の暴力に抗議し、自らの尊厳を守ろうとした高校生もいるようだが。

2013年1月8日(火)【世論操作】
 日本の「世論」にいちばん影響力があるのはおそらくNHKニュース、それも勤め返りの人も見る7時のニュースだろう。新聞を読む人がますます減っている今、世論操作のかなめになっているはずだ。
 今日の7時のニュースも最初から新社長日本株式会社のCM番組になっており、アナウンサーもセールスマン顔そのものだった。今日のお勧め商品はオリンピック。
 去年5月時点での開催支持率は、東京が47%。つまり過半数の人がなんらかの理由で支持していなかったわけだが、この数字を紹介しながら、受信料をもらっているその過半数の視聴者の不支持を完全に無視。
 招致にに疑問を呈するどころか、ぬけぬけと「一方で、国内の支持率を高めることも、大きな課題です」「国内で招致への機運を高めていくことが求められています」と笑顔で語っていた。 
 語るに落ちたわけでもない。いつものような既定方針の、あからさまな露骨な世論誘導だ。
 これで受信料支払いを少なくとも遅らせる理由がまたひとつ増えた。(もちろん、口座引き落としの先払いになど応じていない)
 それにしても、これからもくり返されるであろうこうした世論操作が功を奏したとして、「空間放射線量が国際放射線防護委員会の基準値を下回っていることを示し、津波への備えを強調」しなければならないような「世界で最も先進的で安全な都市」で、本当に安全を保証できるのか。
東京 五輪立候補ファイルを公表
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130108/k10014659991000.html(NHK)
東京五輪「コンパクトで安全」 都招致委が開催計画公表
http://www.asahi.com/sports/update/0108/TKY201301080376.html(朝日)

2013年1月7日(月)【ワースト・ミックス】
 クローズアップ現代「エネルギー大変革~岐路に立つ日本の資源戦略」」を見た。いろいろと興味深い話もあったが、いちばん肝心な問題がないがしろにされている。日本に原子力を加えた「ベスト・ミックス」などあり得ないことは下の分布図を見れば一目了然だ。アメリカとも韓国ともドイツともまるで違う。「冷徹な」、「現実的な」目で見れば見るほど、原子力が入ればとたんに「ワースト・ミックス」になるのは素人でもわかる。松の内の最後にまたおめでたい話を聞いてしまった。生存戦略のない資源戦略……。

・2011年の世界の地震 分布図
 http://www.youtube.com/watch?v=cwWn_W6ZbT4

・もうひとつ。「東アジア核のごみ 六ケ所村で再処理受託 政府、核燃の延命構想」
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/kakushin/list/CK2013010602000090.html

2013年1月5日(土)【死への同意】
 もっというならば、取り返しのつかないことが、すでにまた起きてしまっているような感じがしてならないのだ。
 天災も人災も昔からあったし、そういう危険があろうがなかろうが、500万年前から人々はひとり残らず死につづけてきた。しかし、その危険と不慮の死が、今や人類の制度になっている。そしてその制度に賛成し、あるいは沈黙によって同意する人は、生きながらすでに死んでいる。

2013年1月4日(金)【防災】
 またあちこちでしきりに地震が起きていている。嫌な感じだ。なんだかここも、ときどき揺れているような気がしてならない。それが気のせいなのか、本当に揺れているのかを判別するために、昨年から机の上の蛍光灯にいただきものの猫の風鈴(だと思う)をぶらさげている。手で揺すると糸でつりさげられた3本の細い金属棒がやや高めの澄んだきれいな音をたてる。これまで自然に鳴るのを聞いたことは一度もないが、小さくても地震が来るたびに、風鈴は静かに揺れはじめる。そして私はそのたびに家じゅうの火の元を確かめに走る。 しかしいつかそのうち、触れもしないのに風鈴が鳴り始めたら、私は絶望的な思いであの確かめようのない恐るべき火の元を案じながら、その澄んだ金属音の響きを聞きつづけるしかないだろう。防災の基本の心得を忘れ、結局はすべてを運まかせにすることを選んだこの国にあって。

2013年1月3日(木)【だれも驚かないニュース】
 
・ 電力業界から17億円寄付 原子力研究の8国立大に
http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013010301000930.html
 
 私たちはたいていのことには驚かない。どうせそんなことだろうと思っているし、この手のことはもうこれまでにもどこかでさんざん見てきたような気がする。初めてでも10回目でも驚かない。17億でも170億でも驚かない。
 この8国立大の教員や学生がこのニュースを知って、他人事のように黙りこんでいても驚かないし、
 日本じゅうのすべての大学が他人事のように黙りこんでいても、
 日本じゅうのすべての人が他人事のように黙りこんでいても、
 自分さえ他人事のように黙りこんでいても驚かない。
 たとえ、自分も負担させられたその寄付金のおかげで
 危ないものを危ないと専門家に教えてもらえないとしても。
(再掲 http://www.youtube.com/watch?v=5fTWS7WBKgA )
 そして私たちはだれもが黙りこんでいることにだれもが驚かないことにも、
 もちろん驚かない。
 毎度のことだ。
 やはり、よくよくおめでたい国民なのだろう。

2013年1月2日(水)【おめでたいテレビ、おめでたい新聞、おめでたい国】
  
  愛川欽也 「日本のテレビとか新聞、見ていていらいらしませんか?」
  小出裕章 「いらいらします」 

 小出さん同様、無数の視聴者同様、私もずっといらいらしつづけてきた。なににいらいらしてきたのか、適当なことばがずっと見つからなかったのが、昨日、ようやく見つかった。
 そう、ひとことでいえば、おめでたいのだ。テレビと新聞のおめでたい人たちのおめでたい報道が、この国を救いがたくおめでたい国にしてきた。わずかな救いは、めでたくない報道をきちんとしてくれる人や局もまだ健在なことだ。
 
 原発事故1年9カ月を小出さんに聞く(約40分)
(kinkin.tv 愛川欽也「パックインニュース」 2012.12.01 特別ゲスト:小出裕章 )
 http://www.youtube.com/watch?v=qKbsVyifafg

2013年1月1日(火)【新年のごあいさつ】
 
 原発新増設再稼働反対!

 また世界の、とりわけ日本の原発ロシアン・ルーレットの一年が始まる。3.11までの数十年も毎年ずっとそうだったのだが、私たちはおめでたいことにそれを知らなかったか、まるで知らないかのようにおめでたがっていた。今ははっきり知っているし、それを自分がはっきり知っていることも知っている。 しかし依然として、この、世にも危険な博打をどうすれば止められるのかを知らない。せめてそれを知るまでは、おめでとうはおあずけにさせていただく。正直、これ以上おめでたくはなりたくない。銃口をつきつけられながら……
 
2012年12月30日(日)【体毛】
 あるいは単に忘れているだけで、実は子どものころの冬の家はけっこう寒かったのかもしれない。いつも寒かったけれど、耐えられないほどではなく、単に冬は寒いものだと思って我慢しているうちに、寒さにも、我慢することにも慣れ、よりひどい寒さ、大寒にも耐えられるようになっていく……。そしてやがて待ちわびた春が来る。
 どうもこっちのほうが真実味がある。それに、いかにもこの地上で生きていたという感じがする。少なくともその昔、アフリカから北に向かい、冬を経験することになった人類は、みな多かれ少なかれ寒がりながらその寒さに耐えていたはずだ。
 しかし不思議なのは、人類は北へ向かうにつれて体毛が増えてふさふさになったのでなく、むしろかえって減って、しるしばかりになっていったように見えることだ。動物の皮を着たり、焚火で暖をとったりしているうちに毛が減っていったのか、それとも毛が薄くなって寒いから皮を着たり焚火をしたりしたのか。
 一説によると、人類が頭脳を働かせるためには暑いときでも頭を冷やしておく必要があり、そのためには身体から発汗する必要があり、そのためには皮膚が毛におおわれずに露出していたほうがいいのだそうだ。
 多くの鳥や哺乳動物のように寒くなると全身にびっしりと厚い毛が生えるのは便利そうだが、とにかく人類はそういう自然の便利さ、自然の恵みを失う運命にあったようだ。暑さの中でも働く頭にしてやったのだから、寒さのほうはその頭を使ってなんとかしろと。
 たしかに寒さのほうはなんとかなった。それどころか場所によっては家の中からほとんど追い払うことに成功した。だが、そのやり方たるや……人類の頭が充分に冷やされてきたとは、到底思えない。こんなことならまだ頭でなく体毛で暑さ寒さの調節をしていたほうがましだった、などということにならねばいいが。
 
2012年12月29日(土)【脱暖房】
 先日会った先輩は「戦争」だと思っているといっていた。家には太陽光パネルを置き、こまめに電気を消し、電気器具を極力使わず、待機電力を使わないよう不用器具はすべてコードをぬいているそうだ。
 正気にもどるための戦いは習慣との戦いだ。習慣との戦いは自己改造、自己革命の戦いで、地味だがもっとも根本的な力になるものだろう。私にはまだ先輩ほどの覚悟もないし、まして「持たない男」中崎タツヤ氏の革命性の足元にも及ばないが、持たず、使わないための工夫の楽しみは少しずつ覚えてきている。
 それに私の世代にはまだ物の少なかった時代を知っている強みがある。私が子どものころ、家の電化製品は電灯とラジオとアイロンだけで、暖房は炭火のこたつひとつだったが、真冬の雪国でとくに寒かった記憶もない。単純な話だ。たくさん着こんでいたからだ。
 今も最初だけガスストーブをたいて少し暖めた部屋で、ヒートテックの肌着にタートルネックのセーター、それにジャンパーを着て、毛糸のソックスに膝かけでこれを打っている。もっと寒くなればコートを着る。手や足を温めたいときには湯たんぽも使える。考えてみれば、コートや上着を脱いでストーブやエアコンをつけっぱなしというこれまでの習慣は馬鹿げていたというしかない。こんなに暖かい安い衣類が山ほど出回り、しかも山ほど捨てられているというのに。
 そういえば、1980年代前半、上海の宝山製鉄所建設のための通訳に行っていたころ、その会議場には冬も暖房がなく、みな思いきり厚着をし、もちろんコートを着たまま一日じゅう会議をしていていた。当時は長江以南はどの職場にも一般家庭にも暖房はなかったので、中国側の人たちはみな綿入れのオーバーに手編みの毛糸の下着をしっかり着こんでいた。私はもっていないので代わりにスキーズボンをはいていた。あれもけっこう暖かい。
 今上海の人たちはみな、もしかしたら、あの製鉄所の鉄で作ったストーブやエアコンを使い、原発の電気を使っているのかもしれない。そして家でも職場でもコートや上着を脱いで、私たち同様、テレビやパソコンの前で、尖閣諸島周辺の原油やガスがだれのものになるかを注視しているのだろう。

2012年12月28日(金)【正気】
 電気は原発なしで足りているとはいえ、安全の保証もなく廃棄物の処理法も知らないままに原発を再稼働しようとするこの国の狂気を支えているのが、いつのまにか身についた私たちの暮らし方である以上、正気に返るには、暮らし方そのものを変えざるを得ない。この途方もない地球資源の収奪、大量生産大量消費とそれに伴う大量のゴミの産出のシステムをどうにかして速やかに止めなければならないのだが、それはまったく容易なことではない。
 家の近くの家電量販店ではIT関係の商品の売り場が以前デパートだったビルの3フロアにまたがっているが、おそらく今ここで売られているもののほとんどは、3年か5年かおそくとも10年後のゴミなのだ。しかしそれを知りながらも新製品に魅かれ、急いで買わねばならないような気さえする。
 1980年代後半から、こうしてどれだけの物を買い続け、捨て続けてきたことだろう。富士通の卓上ワープロ、オアシスを2台、パソコンは最初はNECのPC98シリーズ(たしかMe)を使い、それを富士通のFMVに代え、それをグレードアップして、次にGATEWAYのノートPC、それからSONYのVAIOノート、今はDELLノートだ。外で仕事をすることも多いので、この間にモバイル用にオアシス・ポケット、HPのジョルナダ、パナソニックのレッツ・ノートも買い、今は重さ700gを切るVAIOのXシリーズを使っている。
 仕事のため――そう、確かに仕事のためではあったし、こういう果てしない買い換えの中で悪戦苦闘してきたおかげで、今やそれこそが世界であるかのようなネット世界と結びついてもいられるのだが、周辺機器やソフトやケーブル類を含め、私が捨てたパソコンがらみのゴミの量を思っただけで空恐ろしい感じがする。それでも万年筆一本の暮らしにもどりたいとは思わないし、もどれるとも思わない。せいぜいあわてて買わず、あわてて捨てないよう努めることくらいしかできない。
 その罪滅ぼしの分とも、他の面でどのくらい資源の節約ができるかを本気で考えなければならない。

2012年12月27日(木)【警告】
 ほんとうに、この国は正気なのだろうか?
 巨大地震がかならず来る、明日来てもおかしくないとわかっている。

 少し大きな揺れが来ると、青くなって、いよいよ来たかと思う。
 安全な場所に建っている原発などひとつもないことを思い出す。
 それなのに、揺れが収まるともう、あっというまに、ふてぶてしくさっきまでの日常にもどっていく。
 あたかもその日常が永遠に保証されているかのように。

 そしてまた大きな揺れが来ると、青くなって、とうとう来たかと思う。
 安全だといわれ続けた原発が次々に爆発したことを思い出す。
 それなのに、揺れが収まるともう、以前と同じ人々がまた安全だというのをまた信じようとする。
 あたかも自分が国家経済や持ってもいない株高から得るもののほうが原発事故で失うものより多いかのように。

 そしてまた大きな揺れがくると、青くなって、ついに来たかと思う。
 北半球を滅ぼしかねないほどの核燃料棒があちこちに貯蔵されていたことを思い出す。
 それなのに、揺れが収まるともう、見たこともない遠くの小島を他国から守ることのほうが気になってくる。
 あたかもこの国を明日の自滅から守る必要などないかのように。

 そしてまた大きな揺れが来ると、青くなって、やっぱり来たかと思う。
 やっぱり来たか…… ついに来たのか…… やっぱり……
 これまでの揺れのひとつひとつが警告であったことを、その警告のひとつひとつを無視してきたことを思い出す。
   
 【12.28大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】対新政権!2012年の最終抗議!大間原発の建設を中止せよ、大飯原発を停止せよ、全原発を即時廃止せよ!12/28(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=2329

2012年12月25日(火)【クリスマス・プレゼント】
 クリスマス・プレゼントにかかわる小説は「クリスマス・キャロル」や「若草物語」を始めいろいろあるが、私のいちばんお気に入りの場面があるのはやはり「レ・ミゼラブル」。
 始めから終わりまで有形無形のプレゼントだらけの小説で、ミリエル司教の銀食器のプレゼントなども素晴らしいが、やはり圧巻はジャン・ヴアルジャンのクリスマスのサプライズ・プレゼント。宿屋のおかみに日々罵られ、打たれ、こきつかわれながら、日々恐れと悲しみの中で生きてきたコゼットが、生まれてはじめて本物の人形をもらう場面だ。
 それまで鉛の小さな剣にぼろを巻いて人形代わりに抱くしかなかった8歳の女の子の前に、「さあ、これがお前さんのだ」と、突然、豪華な衣装を着たみごとな人形が置かれる。ユーゴーはその驚いた子どもの「絶望と恐怖と歓喜とのこもった様子は、いかなる文字をもってしても書き現すことはできない」といいながら、実に細かに、嬉しそうに、数ページにわたってその感動的場面を描きだしている。
 私が昭和39年に買った豊島与志雄訳の岩波文庫版は、第一巻に次いでなぜかこの第三巻がやや刷数が多い。この場面目当てに買う人もいたのかもしれない。プレゼントをされる側の喜びを描くことは、とりもなおさず、する側の喜びを描くことでもあり、その二重の喜びが読者のものとなる。

 以下のサイトでも、写真を見ながらそういう喜びが味わえる。お勧めは12月20日の「リンゴ粕がやってきた!」。地獄のような飢餓と殺処分を生き延びた牛たちの祝日。ここに寄付をしたことのある人なら、喜びはひとしおだろう。
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/(希望の牧場ブログ)

2012年12月24日(月)【関係3】
 クリスマス・イヴだ。キリスト教と原発はもちろん関係があるのだろう。うろ覚えのマックス・ヴェーバーによれば、宗教改革後、西欧の人々が俗世の仕事にやたらにきまじめに打ち込むようになったのは、もとはといえば、自分が死後に救われ、永遠の命を与えられるべく選ばれた側であることを自らに証しするためであったという。当時の教説では、だれが選ばれし者であるのかは、神しか知らず、しかも選別はもはや改変のきかない形で済んでいるはずなのだが、自分が選ばれているのかどうかがわからない不安が、すでに選ばれている人なら当然するであろう地上で「神の栄光を顕す」ための仕事に人々を駆り立てた。
 少しでもふまじめだったり怠けたりすれば「選ばれていなかった」証拠となるのだから、少しの油断もできない。こうした無数の人々の全生涯をかけた脅迫的な自己証明に始まる数百年の努力の果てに、世界の数百基の原発は立っている。キリスト教などあまり知らなかった日本にも、なぜかたくさん立っている。
 日本ではどこからどういう流れでそうなったのか、にわかにいえることでもないが、少なくとも地上で神の栄光を顕すために始まった流れではないし、死後に救われるためでもなさそうだ。おおむね現世で、ひたすら現世で、豊かに生きていこうという流れだったのだろう。だが、見たところ、修飾語「豊かに」の内実のほうはともかく、肝心の「生きていく」ほうが危ない。さて、死後以前に、どうすれば現世で救われるのか。

2012年12月23日(日)【関係2】
 自嘲的ないし自虐的に「関係ない」というよりも、やはり「関係し得ない」、あるいはもっと正直に「関係し難い」といい直しておくことにしよう。
 原子炉の停止ボタンが手元にあるわけでもなく、無事にたどりつける場所にそれとわかるようにあるわけでもないとき、どうすればこのわれわれ自身の重大な運命に関わる装置と関係できるのか。
 題名は忘れたが、星新一のショート・ショートにそういう運命の決定に万人が平等に関われるよう、ボタンを押せば世界が滅びる核爆弾の起爆装置が万人に一個づつ配られる話があった。全世界とともに自分も滅びるのだからむやみには押せない。だが、それでも自暴自棄のならず者はやはりいて、ついに押してしまう。「しかし、実は滅亡したのは彼ひとり」という想像どおりの落ちがつくのはいうまでもない。
 起爆ボタンならこういう自業自得の手は使えるかもしれない。だが起爆を止めるボタンはそうはいかない。押した人にだけお望みの安全が保証され、押さなかった人にはお望みのスリリングな危険が保証される、というわけにはいかないのだ。
 それに、もしかしたら、起爆防止装置はすでに一度、万人に配布されたのかもしれない。多数決方式の、相対的多数がうまく押せば原発を止められるかもしれないボタンが並んだ装置が。しかしほとんとの人が、あの投票用紙がそういう装置であることを知らないか、あるいはどのボタンがそのボタンなのか結局判別できなかった。
 こうして、自分の運命にもろに関わるのに、自分では触れることができないあの本物の停止ボタンに「関係」し得る数少ないチャンスのひとつが過ぎていった。

2012年12月22日(土)【関係】
 宇宙に終末があるかどうかについては諸説があるが、一説によれば、遠い将来、いかなる生物も存在しえない熱に包まれるらしい。
 それ以前に、地球は50~70億年後には太陽に呑み込まれるらしい。
 もちろん、私たちには関係のないことだ。
 50~70年後だとしても、5~7年後だとしても、やはり関係ない。
 明日、放射能に呑み込まれるかもしれないのに、それさえ関係ないのだから。
 
2012年12月19日(水)【予言】
 ツイッターで何日も前から下の「天気予報」の絵が話題になっている。例のマヤ暦で「終末の日」と予言されていたらしい12月21日の金曜日を含むもので、だれが作ったのかしらないが、いかにも天気予報らしく、淡々と、だがすみずみまでよく作り込まれていて笑ってしまう。とくに、もうないはずの「翌日」、22日の欄まで設けてあって、そこがただの空白になっているのが恐ろしい。

「メキシコの21日の天気予報がヤバい!気温は999°世界中で話題に-
http://news.infoseek.co.jp/article/sunday_4360016

 天から火の玉が降ってきたり、天そのものが落ちてくるような終末を恐れているネット民はほとんどいないだろう。このネタを今も拡散しつづけている無数の人々が本気で恐れているのは、もちろん、天ではなく地が、神ではなく人がもたらす終末のほうだ。人が築いてきた文明に手を焼き、もてあまし、それを恐れ、自分自身を恐れ、遠い昔の祖先が実はそのことを予言していたのではないかと恐れ、そしてそこに予言されたような日がいつか来るのではないかと恐れている。21日でなくとも、いつか、翌日がただの空白になるような日が。

2012年12月18日(火)【厳粛な時】
 「人が集まらない 福島「収束宣言」から1年 原発作業暗転」
  給料は手取りで月額二十万円に届くかどうか。危険手当はなし。寮もなし-
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012121890070255.html (東京新聞)

 いまどこか世界の中で泣いている
  理由もなく世界の中で泣いている者は
  私を泣いているのだ

 いまどこか夜の中で笑っている
  理由もなく夜の中で笑っている者は
  私を笑っているのだ  
                   
 …………
  (リルケ「厳粛な時」富士川英郎訳。今日は前半。昨日、一昨日が後半です)

2012年12月17日(月)【日の丸】
 
  RT:ratatouille@nicomeguide  今ドイツARDのニュース見てるんだけど、日の丸の中に原子力のマークが。。。 pic.twitter.com/WjlrmP1N

 またもや、山ほど根拠のある悲観をなんの根拠もない楽観によって駆逐するのだろうか。
 またもや、安全であってほしいという願望を安全だという保証にすりかえるのだろうか。
 そしてまたもや、日の丸の旗の下、進軍ラッパにあわせて皆で行進していくのだろうか。

 …………
 いまどこか世界の中を歩いている
  理由もなく世界の中を歩いている者は
  私に向かって歩いているのだ。   (リルケ「厳粛な時」富士川英郎訳)
 …………
  

2012年12月15日(土)【選挙】
 これまでいつもそうであったのにも増して大きな一億人の賭け。
 すでに生まれ出ている生命と、これからはてしなく生まれ出るはずの生命を救えるのかどうか。
 
 …………
 いまどこか世界の中で死んでゆく
  理由もなく世界の中で死んでゆく者は
  私をじっと見つめている     (リルケ「厳粛な時」富士川英郎訳)


2012年12月14日(金)【選挙前日の集会とデモ】

【Nuclear Free Now さようなら原発世界大集会】
■日時:12月15日(土)13:00~ 
■会場:東京・日比谷野外音楽堂
http://sayonara-nukes.org/2012/11/nfn121215/#more-2588
続いて:
【Nuclear Free Now 脱原発世界大行進2】2012年最後の脱原発巨大デモ開催!12/15(土)集会13:00~@日比谷野音 デモ出発14:30~日比谷公園中幸門 /呼びかけ:首都圏反原発連合 ツイートボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1847

2012年12月13日(木)【原発事故被災動物たちの今。どうぞ御支援を】
 原発事故のもっとも悲惨な被害者である警戒区域の動物たちを勇敢に救出してきたアニマルエイド、ニャンダーガード、松村さん、猫おばさん、犬猫救済の輪……みな今も、人手もお金も不足がちななかで、懸命に生き残った動物たちの世話を続けています。犬猫みなしご救援隊は近頃、栃木拠点から隊の地元、広島への大移動を無事完了したようです。
 資金的にもさまざまな条件面でも、なおいちばん過酷な状況にあるのが大型動物である牛を保護している人たちでしょう。松村さんは犬猫のみならず牛を保護したため、義援金が支給されなかったとのこと。「希望の牧場」でも牛糞も凍る寒さのなかで、牛400頭を生かし続けるための厳しい闘いが続いていますが、それでも弱い牛は死んでいきます(震えながら、耳まで焦がすほどストーブにあたっていた牛も死んでしまいました)。せっかく餓死と殺処分から救った牛を なんとかこれ以上餓死凍死させずにすむよう、全国から大勢で支えていきたいものです。
○アニマルエイド
http://animaleido.web.fc2.com/index.html
http://ameblo.jp/animalaid-jimunikki/(支援先)
○ニャンダーガード
http://nyanderguard.org/
○警戒区域に生きるー松村直登の闘い
http://ganbarufukushima.blog.fc2.com/
○南相馬の猫おばさんを応援する会
http://ameblo.jp/cat-yoshida/
○犬猫救済の輪
http://banbihouse.blog69.fc2.com/(支援先は一番下に)
○犬猫みなしご救援隊
http://blog.livedoor.jp/inunekoblog/ (右下に支援先)
○希望の牧場
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/about2.html(支援先)

2012年12月12日(水)【ぜいたく】
 私のある友人のお母さんは、長年愛用していたダイヤル式黒電話がボタン式電話に変わってから、さっぱり電話をかけなくなり、その後はまったくかけなくなって、そして亡くなった。
  私の知っているある90歳を越えた老人は、長いこと電話魔で、もちろんボタン式電話も使えたが、老人ホームに入ったら部屋に電話がなく、家族が簡単な携帯電話があるからといくら勧めても、そんな面倒なものはいらないと断り、代わりに手紙魔になった。
 20数年前、日本にワープロが普及しはじめたころ、いっしょに翻訳の仕事をしてた先輩に、「いい万年筆が一本あればそれでいい」と泰然自若としていた人がいた。何年も前に大学教員を退職したはずだが、ずっと万年筆一本ですべてをこなしていたのだろうか。
 こういう人たちのことを、ずいぶんぜいたくだなあと思うことがある。情報弱者などといい、一見、時代から取り残された人たちのようだが、時代から取り残されたとは、いったい何から取り残されたのかと本気で考えてみると、どうもよくわからない。
 むしろ、取り残されているのは、パソコンや携帯に釘付けになってしまったこっち側なのかもしれない。ただこっちも、いったい何から取り残されているのかは、はっきりとはいえないのだが。
 最近ようやく普段も持ち歩くようになった携帯を、スマートフォンに買い換えようかどうしようかと迷っている。買い換えるのはまだぜいたくなような気もするが、買い換えないのはもっとぜいたくなような気もするからだ。

2012年12月11日(火)【疎外労働】
 では業務翻訳は、少しの楽しみもないまったくの疎外労働だったかといえば、必ずしもそうではない。なんの予備知識もないまま、別に興味を持ったこともない専門業務のマニュアルや資料をぶっつけで訳し始めるわけだが、それが他人に何かをわからせるために書かれた文章であるかぎり、どんなに馴染みのない分野の文章でも、そのうちになんとなく少しはわかってくる。
 たとえ最後までなにがなにやらわからなくても、少なくとも、ある言語で書かれたこととそっくり同じことを別な言語で言いなおそうとするゲームとしての楽しみはあった。プロであるクライアントからクレームがつかないよう、二重に意味が取れる箇所で、こっちの言語も二重に取れるよう工夫したりするのはスリリングでさえあった。
 賃仕事としてたちが悪いのは、むしろ頼まれ仕事の文芸翻訳のほうだ。業務翻訳とはちがって小説の翻訳なら書いてある文章の内容は大概わかり、わからないことでも辞書を引けばわかる。たいていの場合、問題はむしろわかりすぎることにある。
 文章のすみずみまで作者の考え方、感じ方、ニュアンスがわかり、しかもそれが嫌いだった場合を考えてみてほしい。美意識が強くからむ分だけ、嫌いな政治家の演説を翻訳するよりもさらに不愉快かもしれない。自分なら絶対にこんなことはいわない、こんな風にはいわない、というようなことを、延々と自分の手で書きつづけるのはまさに地獄であり、自分と読者に対する裏切りであり、疎外労働の最たるものである。
 幾度かの苦い経験を経て、私は文芸翻訳の作品選びには有償無償を問わず、ひどく慎重になった。ほんとうに気に入ったものしか訳さない。どうせそんなにもうかりはしないし、もしまた翻訳だけで食べていかなければならなくなったとしたら、好きでもない作家の小説を訳すくらいなら、業務翻訳に戻るだろう。そしてその労働の忙中の閑の道楽に、好きな小説を訳しつづけるかもしれない。忙しさで亡びようとする自分を回復するために。

2012年12月10日(月)【料理】
 若いころ、何年かフリーの業務翻訳で食べていた時期がある。途中から通訳の仕事も混じったが、とにかく忙しかった。翻訳代理店から仕事をもらうわけだが、さまざまな企業が翻訳代理店に仕事をまわしてくるのは、基本的に急ぐからだ。仕事がないときはさっぱりないのに、あるときは必ず急ぎで、納期に間に合わせるには朝から夜中まで、ほとんどかかりきりになるしかなかった。
 一日二日では終わらない長丁場の仕事の場合、「寝食を忘れる」と結局効率が落ちるので、ある程度の時間は確保しなければならなかったが、「食」にかかわる時間はとにかく切り詰める癖がついた。
 いちばん多かったのは外食だ。気分転換を兼ねて近くのファミレスや蕎麦屋に出かけ、テーブルにつくやいなや仕事を広げ、食事が運ばれるまで鉛筆を走らせ、食事中も読み、帰り道を消化時間にして、家にもどるとすぐ続きをやって、一日のノルマをこなすと寝る時間になるという具合だ。
 外食や買い食いに飽きて自分で作ることもあったが、メニューはとにかく早く出来るもの。主食は同じお湯で野菜もゆでられる素麺がお気に入りだった。おかげで、アパートの隣人のおばあさんに「お宅の猫は素麺を食べるのね」と驚かれてしまった。
 そうこうしているうちに、ゆっくり料理に時間をかけるのを何か疚しい贅沢のように感じるようになった。あるいは単に面倒くさがりだっただけかもしれないが、上には上があるもので、あるときホウレンソウを炒めようと切っていたら、中国人の友人に、なぜ手でちぎらないのかときかれた。ちぎってお湯に通しゴマ油と醤油をかければずっと簡単なのにと。
 彼女は私同様多忙な人だったが、中国楽器の演奏家だったから、その多忙さは楽しみでもあったはずだ。しかし私のほうは通信関係から医療系まで、とにかく頼まれた仕事を片っ端から引き受け、なんの知識もないままに、文法構造だけに頼って急ぎに急いで翻訳していたため、何千枚も原稿を納めながら、その内容はもとより、この手で書いたたった一行の文さえ覚えていない。 
 
2012年12月9日(日)【衣食住】
 私の母は子どものころ近所の蓄音器を見てうらやましく思い、自分でボール箱で作ってみようとしたらしい。もちろん、成功しなかったが、その後いろいろなものを作った。戦時中は割り当てられた畑でサツマイモを作り、古着をほどいてズボンを作り、結婚して私たち姉妹が生まれてからも何枚もセーターを編んだり、おそろいのワンピースを作ってくれた。
 端切れを使って姉用と私用にそれぞれ赤い帽子をかぶった身長16センチほどの人形も作ってくれたし、その人形の服や布団はもちろん、ひな祭りにはマヨネーズの瓶で内裏雛を作り、端午の節句にはよもぎを摘んで、笹団子を作ってくれた。
 父は大工仕事は下手くそだったが、それでも犬小屋や、床がない物置小屋を作ったりしていた。
 まだだれもが匠になれ、ならざるを得ない時代だった。私が昔最初に中国語を習った先生などは、なんとひとりで家を建てたという(柱を立てるときだけ兄弟に手伝ってもらったそうだ)。
 もちろん今だって、自分で服を作ったり、家庭菜園で野菜を作ったり、日曜大工で物置を作ったり、ログハウスを作ったしている人は少なくないかもしれない。しかし、そういうものが商品としてふんだんに出回り、時給換算すれば買う方が明らかに安いとき、それは仕事というよりも、趣味道楽になってしまう。
 適当な衣類と食物と住居を得るための営み――人類がこれまで500万年も真剣にやってきたこと、ついこの前まで祖父母や親の世代さえまだ本気でやっていたこと――から、私たちは自分自身を解放したというよりも、むしろ遠く追放してしまった。
 事態はまったく、あっというまに急変した。直立歩行を始めて以来、人類の文句なしの生き甲斐だったはずの「作る喜び」を失って、だれもが途方に暮れている。『火星年代記』式の、あるいは現に私たちが向かっているような自暴自棄の未来、文明の自己破壊への道から、本当に、どうすれば逸れることができるのだろう。そこに別な道はないから「作る」しかないのだが。

2012年12月7日(金)【火星年代記】
 昨日のような記事を紹介すれば、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』に触れないわけにはいかない。私が生まれた1950年にアメリカで出版された連作SFだが、中の「2000年4月 第三探検隊」は、すでにその年を12年も先へ来た私たちのノスタルジアも先取りしていた。
 最新鋭のロケットに乗り、原子兵器を携えて火星に着陸した探検隊は、そこに1920年代アメリカの故郷そっくりの町を見出す。
 芝生の家のポーチにはブランコが下がり、ゼラニウムの花が置かれ、楡の木がそよぎ、どこかでだれかがピアノで『夢見る人』を弾いている。蓄音器のすり切れたレコードは当時の流行り歌を歌い、死んだはずのおばあさんやおじいさん、母親や父親が両手を広げて自分を迎えてくれる。
  もちろん、探検どころではない。永遠に失われた過去の懐かしい風景や人々がそこに奇跡のように現れて手招きするとき、その引力は、行ってみないことには砂漠なのか沃野なのかもわからない未来の探検の比ではない。
 まして、この時点で小説の未来は2026年の戦争による地球の滅亡へと驀進しているのだ。
 その2026年、辛くも地球を脱出した最後の地球人は、息子たちにこう語る。
 「人間は、機械の荒野の中で、道に迷ってしまって、ただ子供のように、きれいなものに、機械仕掛けに、ヘリコプターに、ロケットに熱中し、まちがった方向ばかり強調した――機械をいかに用いるか、ではなくて、機械そのものばかり強調した……」(小笠原豊樹木訳)
 ブラッドべりがこれを書いた年からもう60年以上もたったが、地球の子供たちは今もまだ子供のままだ。そして新たに加わった危険な玩具や戦争準備に熱中し続けている。
 2026年までにはあと14年しかなく、今日の震度5どころではない地震がいつ来てもおかしくないというのに……。過去に帰るのが不可能なのは、第三探検隊の滅亡が証明している。生き延びて、ブラッドべりがいう「新しい生き方の基準を作る」には、やはり火星に脱出して火星人になるしかないのか?

2012年12月6日(木)【未来都市】
 子どものころ、家で2冊の雑誌を取ってもらっていた。『キンダ―ブック』と『幼稚園』だ。『キンダーブック』のほうは大判薄手の上品な絵本雑誌で、たしか通っている幼稚園で受け取っていたような気がするが、『幼稚園』のほうは月に一度、直接家に届けられた。
 なにしろ人里離れた一軒家で近所には遊びに行ける友だちの家もなかったし、1950年代中ごろのテレビもない時代だ。『幼稚園』が届いた日はいつも祝祭で、『小学○年生』を手にした姉と一日中大はしゃぎしたものだ。
 そのわりに、例のつやのある派手な表紙に男女の子どもの顔が描いてあったこと以外、中身についても、いろいろついていたはずの付録についてもさっぱり覚えていない。わずかに記憶に残っているのは、最初の頁を開くと立ち上がる雛祭りの段飾りと、見開きの未来都市の絵だけだ。
 けっこう大きな絵だったので、もしかしたら『キンダ―ブック』のほうだったかもしれないし、後で合成されているかもしれない。とにかくそこには高層ビルが立ち並び、そのあいだを高速道路がうねり、頭上にプロペラをつけた人が飛んでいた。
 当時は家から親の自転車に分乗して駅に行き、SLの汽車を一度乗り換え、さらにバスに乗って県庁所在地の新潟市までいかないと、中層ビルさえ見られなかった。それも5,6階建てのデパートだ。その十数年後、大学生になって東京に来たばかりの1969年ころも、新宿にさえ高層ビルはなかった。
 それが気がついてみたら、『幼稚園』か『キンダ―ブック』の未来都市にいつのまにか住んでいた。しかもなんの感動もなしに。頭上のプロペラで飛べるようになれば、最初に自転車に乗れたとき程度には興奮するだろうが、それも1カ月もすれば日常になるのだろう。
 スカイ・ツリーなど見に行く気もないし、レインボー・ブリッジさえ(たぶん)渡っていない。未来都市の絵があんなに印象深く、心魅かれたのは、それが未来だったからではなく、単に現実離れしていたからかもしれない。だとすると今、より心魅かれるのは火星都市か、それとも中世ブリタニアか。

8万人の火星移住プロジェクト 米ベンチャー創業者が構想
http://www.cnn.co.jp/fringe/35024990.html

2012年12月5日(水)【小選挙区】
 衆議院議員選挙が公示された。有権者1億人。1億分の1の平等な無力感に加えて、私の属する小選挙区東京19区の有権者が高知3区20万人の2倍以上、46万人もいる不平等感もあるが、この国をこれ以上危ない国にしないために、もっとも有効な選択をしなければならない。
 しかし480名中300名が選ばれる現行の小選挙区では、その判断がきわめて難しい。たとえば東京19区は民主・未来・共産・自民・維新と5党からそろって候補者が出ており、今後の身の安全に直結する原発についていえば、一応前の3党がゼロを主張している。
 ゼロにするまでの期間や本気度には差があるが、へたに票が割れて、容認派に当選されては元も子もない。最悪を避け、せっかくの一票を死票にしないためには安全路線でいくしかない。しかし、さて、だれに投票するのがより安全なのか。原発をなんとか止めたい有権者がみなこんな風に考えて投票するとしたら……。
  
2012年12月4日(火)【ノスタルジア】
 現代人にとって楽しい世界とはどういう世界か? UOとはそういう実験だったのだろう。どうせ偽世界だし、大人が遊ぶための巨大遊園地だし、利用権を売って成り立つ商業用RPGだし、というわけで、その実験は、技術が許す限り、だれに遠慮もなく思い切って行われたはずだ。
 それを始めたのは鬼才リチャード・ギャリオット氏率いるアメリカの会社OSI(後に親会社EAに吸収される)だが、考えてみると面白いのは「楽しい世界」がモデルとしたのが、現代でも未来都市でもなく、中世であったことだ。
 そういう時代背景のほうがプレイヤーにとって、遊びごたえがあると見たのだろう。たしかに現代を背景にして、ネットでも会社員やマクドナルドのバイトができ、車や飛行機に乗れますよと誘われてもたいして乗り気にはなれないし、戦闘や戦争だって高性能銃の引き金を引いたり核ボタンを押すだけで一瞬で終わってしまう。そういう武器や各種アイテムもひとりで原料から作れるわけがなく、作ってもリアリティーがない。
 中世のゲームのほうが遊びごたえがあるのは、つまるところ、ひとりの人間にとって中世のほうが生きごたえがある世界だったからだ。自分でなにをしているのかもろくにわからない疎外労働に明け暮れ、どこのだれがどうやって作ったのかもろくにわからない商品に囲まれ、何をどうすればどう変わるのかもろくにわからない世界に生きているキャラクターを動かしてみてもさっぱり楽しくない。
 そこでギャリオット氏は、現代技術の粋を集めて、その失われた生きごたえのある舞台を再現してみせたわけだ。過去の暮らしへのノスタルジアはいつの時代にもあったはずだが、すさまじい速さで変わり続ける今日ほど、その喪失感が募ったことはないだろう。
 私の暮らしている町ひとつとっても、中世どころか、ほんの15年前と比べてさえ大きく変わっている。ところがUOのの町々を愛馬に乗ってまわって見ると、なにひとつ変わっていない。15年前に修行した石造りの鍛冶屋も、鉄仮面をかぶった親方も、そばの立ち木も、いつも仲間と待ち合わせた銀行前(中世にあんな立派な銀行があったかどうかは別にして)の広場も……そしてすべてが痛いほど懐かしい。
 UOの世界が中世であろうがなかろうが、その風景や町並みのグラフィックを15年まったく変えずに放っておいただけで、プレイヤーを泣くほど楽しませることになろうとは、ギャリオット氏も思いもよらなかったことだろう。

2012年12月3日(月)【限界】
 昨日も書いたように、UOはすっかり過疎化している。最盛期は世界で25万人のプレイヤーを抱え、いくつもあるシャード(並行世界)のひとつだけでも数千人がプレイしており、盛り場の銀行前はいつもごったがえしていたのが、今ではゴールデン・アワーでも数える程しか人をみかけない。
 しかしそれは当たり前だと思うし、その後数えきれないほど競争相手が出てきた中で、よくまあ15年も続いてきたものだと思う。商業型ネットRPGは、15年前にはUOしかなかった、ほとんどのプレイヤーは、UOというよりも、ネット型RPGとはどういうものかを知りたくて始めたのだ。

 当時のUOの広告の文句がふるっていた。
 「れいこ、斧ひとつで生きていくってホントか?」
 「たかし、裁縫に目ざめたってホントか?」

 だれもがヴァーチャルな偽世界の可能性と奥行きを探りながら、中世ヨーロッパの町や山野や地底の洞窟で、リアルでは経験し得ない「職業」や戦闘やその中での交友を楽しみ、おそらく、その偽世界の限界を見極めたと感じた順に去っていった。
 しかし、意外なことに、私同様、日本サーバーが立ちあがった前後からの15年プレイヤーがまだ少なからず残っている。リアルの15年をUO時間に換算すれば180年、なんと180歳のキャラクターで遊んでいるわけだ。その間にゲーム・システムは更新を重ね、新規プレイヤーにはいささか敷居が高いほど複雑精緻になったが、180歳では、いい加減、飽きて当然だ。
 実際、私も半ば飽きてはいる(一昨日ログインしたら、また15回めのクリスマス・プレゼントをもらえた)が、あの世界を経験しつくし、限界を見極めたという感触はまだない。リアルの無限世界ではどんなに長生きしようと絶対に得られないその感触を知るまでは、あの有限世界の生活を細々と続けることになりそうだ。結局のところ、それもまたこの無限世界の経験の一部なのだし。 

2012年12月2日(日)【カタルシス】
 そうはいうものの、実際に死ぬこともなければ怪我をすることさえないUOの世界で、身代わりの対象にむかって思い切り攻撃衝動を解放してきたかというと、そうでもない。
 多くのMMORPG同様、UOでもプレイヤーのキャラクター同士の戦闘、戦争は認められているばかりか勧められてさえおり、途中で地域が限定されたものの、「殺人」、おいはぎ、泥棒、なんでもござれとなっている。
 UOが始まったばかりのころは、一歩町を出ればどこもかしこも無法地帯、狩りに行った先で何度殺されて、たいせつな装備やお金を身ぐるみはがれたかわからない。こうした「殺人者」はPK(プレイヤー・キラー)と呼ばれるが、皆腕達者で、しかもしばしば徒党を組んでいて、単独では到底歯が立たない。
 くやしいので、いつも狩りに行く仲間たちといっしょに、「悪」を懲らしめるPKK(PKキラー)になることにした。しかし、その仲間たちも私と似たりよったりで、家の内装を工夫したり、武器防具を作ったり、最後には勝てそうなモンスターを狩りにいったりするのは熱心だったが、PK討伐のための訓練など思いつきもせず、戦略も戦術もなく、相変わらずやられっぱなしだった。
 プレイヤーどころかモンスター相手でも人に威張れるような戦績はろくにない。UO戦士は、あるダンジョンの奥にいる緑閣下と俗称されるモンスターをソロで倒せれば一人前とされてきたが、最古参のひとりのくせに、私がその一人前になったのはほんの数年前のことだ。装備を整えたり、他人の経験談を参照したりしながら、もう少し強くなってからと、対決を伸ばし伸ばしにしてきたのである。要するに怖かったのだ。
 最高の装備に身を包み、生まれて初めて文字通りの「武者震い」を経験しながら、さまざまな技を使って、ついに独力で緑閣下を倒したときの喜びは筆舌に尽くしがたいものだったが、現実世界ではありえないこうした経験によって、現実では(幸い)たしかめようのなかった自分の一面が見事に確認された。
 つまり私は他人よりずっと臆病なのだと。しかしだからといって攻撃衝動も他人並より少ないというわけではなさそうだ。臆病だからこそ、それを克服し、衝動を解放したときのカタルシスはいっそう大きく、だからこそ、すっかり過疎化したUOの偽世界からまだ離れられずにいる。

2012年11月30日(金)【攻撃衝動】
 こうして他のいかなる動物にもみられない「異常に発達した攻撃衝動」を受け継いだホモ・サピエンスは、その後も延々と今日にいたるまでその呪わしい衝動を向ける対象を探し続けることになった。
 ローレンツによれば攻撃衝動は他の多くの本能よりも容易に身代わりの対象になじみやすい。その結果、スポーツ競技を始めとする人間の文化的営みのきわめて多くのものが、煎じ詰めれば、ことごとく代償行動として説明され得ることになる。
 そういう意味で彼の考えた衝動の働き方はフロイトの考えたリビドーとよく似ているが、この攻撃衝動のほうは、代償行動のための専用の場としてのゲームまですでに無数に作りあげている。多くのスポーツ競技、とくに格闘技や射撃ややり投げはもちろん、ろくに身体も動かさないゲームでも直接、戦闘や戦争を想起させるものはいくらでもある。チェスや将棋や囲碁、ビー玉遊びや陣地取り。追い追われる鬼ごっこやかくれんぼだってそうかもしれない。 
 現代の戦闘系テレビ・ゲームやネット・ゲームについてはいうまでもない。私自身は反射神経もにぶく、ストリート・ファイターなどの純粋なアクション・ゲームは早々に投げだしたが、UOの偽世界では、目も当てられない雑魚とはいえ、戦士キャラも何人も育てたし、より強くなるために武器や防具の製作に余念のない時期もあった。
 その武器は、相手を切るもの、突くもの、殴るもの、射るもの、つまり剣類、槍類、棍棒類、弓類の4通りを、それぞれ何種類もとりそろえてある。「伝説」級の腕前の鍛冶屋や弓師のキャラが作ったものだ。そういう武器をずらりと並べ、どれを使おうかと見ているだけで、ある種の満足感を覚える。パソコン画面の手前のこのメスのホモ・サピエンスにも「異常に発達した攻撃衝動」は確かに埋め込まれているのだろう。

11月29日(木)【後継者たち】
 「蠅の王」で知られる英国の作家ゴールディングが「後継者たち」という小説を書いている。ネアンデルタール人が新人のクロマニヨン人に駆逐され滅ぼされていく物語だ。まだ言葉を持たない人類のイメージ的「思考」を言葉で書こうという志は買うものの、もとより成功しようのない話で、40年も昔に英語版で読んで難しかった上に、二度読むほど面白くもなかったためそれっきりだ。新人というのは実にいやなやつらだという程度の印象しか残っていない。
 ともあれ、ネアンデルタール人がわれらの祖先によって暴力的に滅ぼされたにせよ、そうでないにせよ、私たちが同類と殺しあって生き残った側の、いやなやつらの子孫であることはまちがいない。わが祖先が自分の持って生まれた身体とは別な、石を砕いたり磨いたりして作った斧をふりかざした相手は、野獣だけではなかった。
 食べるために直接の獲物ばかりでなく、猟場や獲物をもつ同類を攻撃するのは、人類だけではない。しかし、直立して空いた手に重い棍棒や鋭い斧もつことによって、同類同士の肉体対肉体の消耗戦を乗り越えた人類が、単に相手を追い払うかわりに、さっさと殺してしまう誘惑にかられたであろうことは想像に難くない。
 「武器の発明と直接につながって、種内淘汰が盛んとなり、それがさまざまな不気味な作用を表してくる。」コンラート・ローレンツは名著「攻撃」(日高敏隆・久保和彦訳)の中にこう書いている。その「不気味な作用」のひとつが、遠い過去に育てられた「人間の攻撃衝動の異常な発達」である。
 そして「人間の生得的な殺害抑制力は、当時も今も、人間の自然な武器にしか同調しない」のだ。

11月28日(水)【狩人】
 ビッグバンで宇宙が始まったのは137億年前、地球が誕生したのは46億年前、人類らしきものが出現したのは5百万年前ほど前とされる。
 猿人、原人、旧人ときて、現生人類と同じ新人が登場したのが4万年前。日本には新人の化石しか見つかっていないようだが、ヘラジカやナウマンゾウや野牛など大型の動物を追ってキャンプ生活をしていた旧石器時代を経て、1万3千年前ころから、磨製石器だの弓矢だの土器だのを使う縄文時代が始まる。定住も始まり、後期には陸稲栽培も行われたようだが、狩猟漁労や植物採集を主としたこの時代も一万年も続いた。
 水稲耕作社会の弥生時代が始まる紀元前4世紀ころまで、われわれの祖先は直接食べるための獲物を追いかけて、数万年も野山を駈けまわりつづけたわけだ。それをやめてからの期間はまだ2千5百年にも満たない。その間に子孫たちの獲物の追跡は時代を追うにつれて間接的になっていった。
 土を耕し、種をまき、蓄え、運び、交換し、加工し、研究し、改良し、発明し、製造し、戦争し、会議を開き、出張し、手続きし、プレゼンし、販売し、警備し、治療し、記録し、教育し、報道し、放送し、宣伝し、広告し……そして、こうした食べていくための知識を得るために、だれもが何年もうんざりするほど学校に通わなければならなくなった。
 おかげで飢えることもなく暖かい部屋にいて、このとおり、ビッグバンのことや何万年も続いた遠い祖先の生活ぶりまでいくらかわかる物知りになりはしたが、その遠い昔の狩人たちほど賢くなってはいないようだ。迂回に継ぐ迂回を重ねたあげく、ついには自分が何を追っているのか、何を追いたいのかさえよくわからなくなっているのだから。
 こんなニュースを見つけた。 
 
 ヒトの知性、6千年前ピーク? 米教授「狩りやめ低下」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121120-00000040-asahi-sci

11月27日(火)【荒野】
 はるか昔、私たちの祖先が一日じゅう、荒野を駈けまわって木の実や草の根を集めたり、海や湖で貝をひろったり、逃げられたり逆に襲われたりしながら野獣をつかまえたりしていたころ、その仕事は、今では想像もつかない興奮とスリルに満ちた宝探しであり、冒険であったにちがいない。空きっ腹を抱え、しばしば餓死しながら、彼らにとっては食べていくための営みがそのままゲームだった。
 しかし今、食べていくことはそうした興奮やスリル、偶然の発見や僥倖や変化の楽しみとほとんど切り離されている。私たちは空きっ腹を抱えて荒野をさまよったり、餓死したり、猛獣に襲われたりせずにすむ安全と自己保存の保証と引き換えに、単調なくり返しなのにやたら忙しく、しかもしばしば、いったいどうしてこんなことをしているのかわからないような仕事に一度きりの人生の大半の時間を費やすことになった。そんな仕事さえ見つからない人も無数にいる。
 だれにも指図されずにやりたいように自分の田畑を耕し、自分の船で漁に出、自分の工場で作りたいものを作り、店で売りたいものを売る。そんな個人経営主も一握りの幸運な人を除いてほとんどが淘汰されたか、されつつある。
 だれのものでもない荒野はすでにどこにもない。会社も工場も役所も学校もすでにだれかのもので、食べていくためにはそのだれかに雇ってもらい、そのだれかががすでに決めたことをそのとおりにやるしかない。それがだれのものかはっきり名指せない場合でも、自分のものでないことだけは確かなようなのだ。かりに所有者を名指せたとしても、たいていはそれも組織であって、それを代表する個人もひとつの機能でしかない。
 こうしてますます増えていく賃金奴隷は食べるために仕事にいき、その貧しい余暇に、なんのために食べるのか、その理由を探しにいく。どこにもない荒野に。

11月24日(土)【遠い鉱山】
 昨日は表題をたまたま「仕事」にしたが、11月23日が勤労感謝の日であったことに、過ぎてから気づいた。この日はもともと新嘗祭を起源としており、その趣旨からいえば収穫に感謝するということらしい。しかし今の世は、収穫の種類性質も、それを得るための労働の種類性質も、自然の恵みに直結していた昔とはあまりにも違ってしまい、なんの収穫のためにだれに感謝すればいいのか、しばしばわけがわからなくなる。
 たとえばこんなケースはどうだろう。UOの隆盛期、多くの プレイヤーがよい武器や防具を作るために、競って腕のよい鍛冶屋を育てていたころ、鉄のインゴットの大量の需要があった。大部分の人は昨日書いたように、自分で鉱山で楽しく鉱石を掘ったが、中にはリアルの仕事が忙しく、その暇がない人もいた。
 そういう人のために、大量の鉱石を掘って数万個、数十万個のインゴットにし、ゲーム内通貨ではなく、リアル・マネーで売り出す人が人が出てきたのだ。ためしに時給に換算してみたら、裏マクロなど使わなくても当時のアルバイトの最低時給に近いもうけになっていた。
 朝から、偽の鉱山に「出勤」して偽のインゴットを作り、偽の鍛冶屋見習いに売る。リアル・マネーで売買されたこの偽インゴットは、この現実の世界でも、「収穫」というしかないだろうし、鉱山の洞窟で一心不乱にツルハシをふるっていたそのキャラクターの持ち主は、勤労者というしかなさそうだ。
 今では、話題のコンプガチャをはじめ、たいていのゲーム会社が直接プレイヤーにゲーム・アイテムを販売している。そういうアイテムの企画制作者、ゲーム会社の運営者やメンテナンススのスタッフも勤労者だし、パソコンやゲーム機のメーカーや、ネット・バンクや電力会社や、運送会社の従業員ももちろん勤労者だ。
 そして、あやうく忘れるところだったが、パソコンやトラックや電気や電線やさまざまな偽世界や偽鉱石や偽インゴットを作るために、今もどこかの遠い鉱山で、一日じゅう本物の鉱石を掘っている勤労者もいるはずなのだ。その鉱山には、UOの偽鉱夫のように、ザクザクと音をたててツルハシをふるっている人は残っているのだろうか。

11月23日(金)【仕事】
 学生時代のアルバイトを含め、私がこれまで四十年余の間に対価を得るために従事したことのある仕事を並べるとこんな風になる。
 デパートの販売員、家庭教師、銀行員、予備校講師、印刷会社の作業員(雑誌の梱包と電話帳のアイロンかけ)、郵便物の帯封貼り、製品モニター、出版社の学習教材編集、業務翻訳、派遣通訳、語学学校講師、大学教員、雑誌懸賞翻訳の添削と講評、文芸翻訳、文芸批評、市民講座講師

 一方、私がこれまで十五年ほどの間にネット・ゲーム、UOの世界で月々10ドルのアカウント料まで払って従事してきた職種は、戦闘系を除けば以下のとおりだ。
 鉱夫、きこり、仕立屋、パン職人、鍛冶屋、漁師、指物師、細工師、石工、錬金術師
 
 こうやって書き出してみると、違いは一目瞭然だ。現実の世界では、私はあれこれ仕事をしながら、結局のところ、現実的なものをなにひとつ生産していない。翻訳や批評はかろうじて「生産」といえるかもしれないが、パンや鉄鉱石や服や魚に比べると、いかにも心もとなく、現実的な手ごたえがない。
 UOを始めたばかりのころ、いちばん感激したのはさまざまな効果音だった。海や川で釣り糸を投げるとパシャッと本当に音がして水面に波紋が広がり、森で木を伐れば斧をふるう度にカーンカーンと音がして、あたりには本当の鳥の声がする。
 その世界では、私は伐り出した丸太を自分で製材し、掘り出した鉄鉱石を自分でインゴットにして、その大半を家具や刀剣や防具やさまざまな道具類を作るのに自分で使っている。タンスや剣を作っているとき、本当のノコギリの音やハンマーの音がするのはいうまでもない。
 ここでは私は生産の全工程を知っており、何のために今の「仕事」をしているのか、先の先まで読めている。しかも私は誰にも雇われてはいないし、自分で作ったものを、欲しがってもいない相手に無理やり売りつける必要もない。自給自足の、現実的な手ごたえのあるいかにもまっとうな人生である。それが偽世界であることを除けば。

11月22日(木)【全知全能】
 ミニチュアをこよなく愛する人間は、もちろん、全能感だけではなく全知の感触をも求めている。もしかしたら偽神の喜びはむしろ後者のほうがまさっているかもしれない。全知のない全能などたいして役に立ちそうもないし、人類にとってはまさに「知は力」なのだから。
 しかし、人はべつになにもかも知りたいわけではない。全てをすみずみまでもれなく知りたいのではなく、全体をあらましでいいから知りたいのだ。それもできれば手っ取り早く。
 ミニチュアの嗜好とはそういうことだろう。ヨーロッパの幾部屋もある精緻なドールズハウスはもともと王侯貴族が、いずれ使用人を使って広大な城の家事を取り仕切らねばならない娘の帝王学用にあつらえたものであったという。現物の城は無理でも、ミニチュアなら俯瞰し、見渡し、全体を把握することができる。個々の部屋同士の、その中に置かれたお道具同士の、すべての関係と用途を、つまりは意味を知ることができる。
  そんな大がかりなドールズハウスがなくとも、本物そっくりに作られた精巧なミニチュアの椅子がひとつあれば、それだけで俯瞰するめくるめく喜びを感じることができるような気もする。その椅子は、たぶん、それが置かれた見えない小さな部屋と、小さな町と、小さな国と、そして小さな世界につながっているのだ。
 とはいえ、人が城や御屋敷の中で、あるいは小さな村や町の中で一生を終えた時代はとうに過ぎ去り、今や私たちは俯瞰することも見渡すことも到底不可能な広大な世界に投げ出され、相互の関係など到底知り得ない数十億の人々と、無数の組織機関、ろくに用途もわからないおびただしいお道具、そして無限に増え続ける情報に囲まれて生きている。
 今、人がミニチュアに寄せる愛着は、自分の住む世界をあらましだけでも知っていると思っていた時代の人々より、はるかに強烈な、痛切な、ほとんど切羽詰まったものになっている。現代版ミニチュア、電子の偽世界の繁殖と隆盛がそれを物語っているといえるだろう。自分の実際に住む世界でこれほど無知無能になっても、それでも人は全体を知りたいのだ。全体の中での自分の用途を、意味を知りたいのだ。

【23日金曜!大間原発の建設を中止せよ!首相官邸前抗議】11月も官邸前抗議はまだまだ続きます。大飯原発を停止せよ、全原発を即時廃止せよ!11/23(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=1442
 
11月21日(水)【一億分の一】
 人はなぜミニチュアがこんなに好きなのか。なぜミニチュアを作ったり、集め、所有し、並べ、見せびらかすことが究極の道楽になり、遊びになるのか。
 これに答えるのはそう難しくはない。対象が小さくなればなるほど、私は相対的に大きくなり、その分だけ対象に加え得る力も大きくなって、生かすも殺すも意のままの処分可能性が高まる。ガリバーのまわりの小人やあの小さな城や船が無傷でありつづけられるのは、単に、ガリバーがおのれの力、破壊の力の行使を控えているからにすぎない。
 自分の胸三寸の慈悲によってそこにある、はかなく、いたましく、だからこそ可愛いミニチュア。それがもたらす怪しい陶酔と全能感。これをつきつめればどこに行きつくかを、スタニスワフ・レムは「宇宙創世期ロボットの旅」で容赦なく描いている。
 「星を作ったり消したりすることなど、せいぜいくるみの殻をむくくらいという能力の持ち主」であるトルル氏は、ある惑星で、自分の王国から人民に放逐された王に出会い、その気の毒な王を慰めるために精巧きわまりないミニチュア玩具を作ってプレゼントする。
 1メートル四方のその小さな箱には、山や川や森や都市はもちろん、軍隊や議会、女官や詩人や国王への陰謀家や中傷者や、汗水たらして働く民衆もすべてひととおりそろった縮尺一億分の一の王国が収めてあった。
 しかし、しばらくして再びそこを訪れたトルル氏は、その箱がいつのまにか内側から破られて惑星いっぱいに国が広がり、そのミニチュアを人知れず上空からいじくり、操作していたはずの国王は、その惑星の月にされていたことを知る。
 神に近づくこと。作られ、動かされるばかりでなく、作り、動かすこと。その力とエネルギーをもつこと。この秘められた願望はレム自身のものでもあり、他の作家や芸術家、そしてミニチュアを愛するすべての人のものでもあるのだろう。たとえ私たちが、私たちの知るすべのない何者かが上空で弄ぶミニチュア世界の住民であるとしても。

11月20日(火)【十二分の一】
 UO世界の時間が現実時間の十二分の一となったのは偶然ではなさそうだ。欧米でホビーの王様といわれるドールズハウスでは、そのミニチュアの家はもとより家具調度も食器も道具も、縮尺は十二分の一が基準とされてきた。
 これは12インチを1フィートとする12進法から来ているというが、たまたま十二分の一が、人間の身の回りのめぼしい品々を可能な限り小さくしながら、しかもそれらしく(タンスの引き出しがちゃんと開くなど)再現できる、いちばん手ごろな縮尺率であったことにもよるのだろう。
 古今東西、人は小さなものに魅かれ、しばしば何の役にもたたない小さなものを丹精込めて、本物そっくりに作り続けてきた。聖書に始まる数々の豆本、中国の米粒大の象牙に刻まれた唐詩(それをわざわざ虫眼鏡で見る)、瓶の中の船の模型、飛行機や軍艦や建造物のプラモデル、人間や動物やロボットのありとあらゆるフィギュア、ミニチュアボトル……。
 ヨーロッパのドールズハウスにしても、日本版ドールズハウスといえる雛飾りにしても、かつて病膏肓に入った裕福な人々は、へたをすると本物より高価なお道具を、鍋釜や壁に掛ける絵に到るまですべて本職の職人に作らせていたらしい。
 ミニチュアの世界はなんとも怪しい世界である。かりに、今私が向かっているDELLのノート・パソコンの12倍の大きさのものをもらったとしても少しも嬉しくない(だいいち置き場所に困る)が、十二分の一のまったく同じ機能のものをもらったとしたら、もう狂喜して一晩じゅう豆粒のようなマウスを指先でいじくり、キーボードを爪楊枝でつつき続けることだろう。
 なぜだろう? 同じものが大きければ邪魔なだけの荷物になり、小さければ魅惑に満ちた宝物になる。ガリバー旅行記も巨人の国の話よりも小人の国の話のほうがずっと面白かった。この世界は、もしかしたら、私たちには大きすぎるのだろうか?

11月19日(月)【偽世界ー時間ー 】
 さて、今から15年近く前のある日の夜、私のウルティマ・オンライン(以下UOと略す)の第一号キャラクターPonが、ブリタニア北方の田舎町で途方にくれていたら、そこに立派な身なりをした男が近づいてきて「初めてなの?」と声をかけてくれた。
 当時UOはまだ日本語対応していなかったので、ローマ字だったはずだ。Ponが「何をすればいいのかわからない」というおきまりの当惑を文字にすると、だいぶ前からプレイしていたらしいその男は、「まず強くなることだ。それにはいい武器と防具がいる。いっしょに来て」といって、もの慣れた様子で呪文を唱えて怪しい紫色の楕円を出し、それをクリックするようにいった。
 クリックすると、とたんにPonはそのムーンゲートなるものに入って、別な町にワープしていた。それはさっきの田舎町とは比べ物にならないにぎやかな町で、さまざまな身なりの人々がが行き交い、大小の建物が立ち並ぶブリタニア最大の都市、首都ブリテンだった。
 男はPonを一軒の店に案内し、当時のPonには到底手のとどかない高価な武器防具を一式、なんと気前よく買いそろえてくれたのだ。私は恐縮のきわみで、いつか恩返しをなどといったが、男は金持ちらしく、「いいから、いいから」と立ち去った。
 私Ponがそのキュクレインという男の教えてくれた武術の訓練所に着いたころには、リアルではまだ1時間ほどしかたっていないのに、さっきまでの夜がもう昼になっていた。後で知ったことだが、UOの時間は一日がリアルの一日の十二分の一、つまり2時間とされているのだった。
 昨日の問い、「楽しい世界」を保証する原理のひとつが、時間の縮尺、思いきった短縮にあることは間違いない。あのキュクレイン氏は日本サーバー開始からたった一ヶ月で、見ず知らずの私に豪勢な贈り物ができるほどの財産をこしらえていたのだ。もし一年がかりで貯めたお金だったら、いくらゲーム内のお金でもああはいかなかっただろう。要するに、手っ取り早さだ。

11月18日(日)【偽世界】
 その後私は「ドラゴン・クエスト」や「ファイナル・ファンタジー」のシリーズを、プレイステーション版に変わる前まで続けた。「女神転生」や「プリンセス・メーカー」も試し、「三国志」では何度も中国を統一した。映画の中を歩いているような不思議な感じのする「RIVEN」もやったし、「A列車で行こう」では都市建設を手掛けて大金持ちになり、空港開設にこぎつけた。
 80年代から90年代にかけての電子ゲームの勃興期は、たしかに興奮に満ちた時代だった。それは人が電子技術によってどこまで人を楽しませ得るかを実験するとともに、それを通じて人がいったい何を楽しみたがっているのかをたしかめようとした時代でもあった。
 世界初の商用MMORPG「ウルティマ・オンライン」はその究極の実験のひとつだったといえるだろう。いわゆるワールド・シミュレーターである。開発者のリチャード・ギャリオット氏は文字通り、「私たちは世界を作った」と豪語したといわれる。
 それは1997年にアメリカで始まり、1998年9月には日本サーバーが動きだした。私が初めてログインしたのはその年の10月か11月ころだったが、きのうのことのように鮮明に覚えている。その日、私がPonと名付けたキャラクターは、中世ヨーロッパ世界を模した「ブリタニア」のYewという田舎町に降り立ち、そして途方に暮れた。
 2Dとはいえなかなかリアルな石造りの僧院の前に立って、近くの広大な葡萄畑を見ながら、そこで何をどうすればいいのかわからないのだ。そういう意味でもまさにひとつの世界だった。歩きだし、動きだしてはじめて、少しずつその世界の原理が見えてくる。もちろんそこにはこの本物の世界にはないものがあり、あるものがなかった。そうしたさまざまな過不足の中で、ギャリオット氏の世界の楽しさを保証するとともに、まごうかたなき偽世界としてしまう肝心な原理は何だったのだろう。

11月16日(金)【偽者3】
 日夜なにかの役割を演じるロール・プレイをしてきたはずなのに、それでも人がその余暇に、さらなるロール・プレイを娯楽にしようするのは興味深いことだ。
 電子ゲーム機やパソコンとともに市場に現れたRPGは、鬼ごっこやままごと遊びや、電車ごっこや学校ごっこをとうに卒業した中人や大人が、べつに金儲けや性的要素も含まない純粋なごっこ遊びにどれほど魅かれ得るかを見せつけるものだった。
 まだ鮮明に覚えている。私が20年以上も前に最初に試した本格的RPGはドラゴン・クエストⅢ、名作の誉れ高いゲームだった。名前を登録してログインすると、画面の文字に「ナオコや、起きなさい」と呼びかけられた。
 そこで私は起き、母親と祖父に国王が待っていると告げられて、ゲーム機のボタンを押しながら、ぬけるように青い空の下を、王宮へと急いだのだった。そして生まれて初めて王に話しかけ、その王から、私の見たこともない父親、勇者オルテガの遺志を継いで魔王を倒すよう、依頼を受けた。
 私は王にもらった支度金で初歩的な武器と防具を買い、そこらにいる弱小モンスターと闘いながら、生まれて初めて武術の腕を鍛えはじめた。
 偽者がさらなる偽者になるヴァーチャルな人生はこうして始まったのだった。日付は覚えていないが、人生であれほどの興奮を覚えた日は、そう何度もない。何もかもが初めての経験だった。そう、実はプログラミング言語のおびただしい列の上をさまよっていただけにしても、あれはたしかに経験としか呼べないものだった。ロビンソン・クルーソーがただの文字列ではなく、ひとつの経験だったように。
 その経験の質は現実とも読書とももちろんちがう。どこがどう違うのか、それは自明なことなのだろうか。
 
11月15日(木)【IWJ】
 見飽きた顔ばかり長々と出てきて、他はどうなっているのかさっぱりわからないテレビ・ニュースの政局報道にはとうに愛想が尽きたので、最近はテレビの代わりにIWJ (Independent Web Journal)のネット配信を視聴している。
 たとえば今日聞いたのは、社民党を離党した阿部知子氏の記者会見。警戒区域の動物救援や超党派の「原発ゼロの会」にも関わってきた彼女が、なぜ離党し、新党を作ろうとしているのか、興味深い内容で、「緑の風」や、質疑応答では「緑の党」にも触れられている。
 ・2012/11/15 阿部知子議員 記者会見

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11月14日(水)【偽者2】
 親の世代が80歳を越えて90歳にさしかかるころから、偽者から脱皮し始め、あるいはあっさり偽者をやめてしまった人のことを、身近で度々見聞きするようになった。
 末期癌で今都内の病院にいるある人は、結婚して子育てし、姑や夫を見送った数十年のことをすっかり忘れ、勝手にその病院を子どものころ過ごした故郷の家に変えてしまった。看病に行った息子はその古い家の台所からひょっこり出てきたことになった。玄関の踏み石のまわりには松葉牡丹が咲いている。
 それまでは愛想がよく、だれかれとなくやさしい言葉をかけてくれたある人は、姪が病床に見舞いに行っても声ひとつかけず、今まで口にしたこともなかった「大神」のことをひとりでぶつぶつと語りつづけた。
 ある人はやはり病床で娘の顔を忘れ、次には大好きだった孫の顔さえ忘れ、自分がどういう役柄を期待されていた誰であったかを完全に忘れて、そして亡くなった。
 またある人は、身体は達者で自由に町を歩けるのだが、その町の名前も、出入りする店の名前も、食べたものの名前も忘れているし、腕時計はしているものの、時刻や時間がなんだったかも忘れている。
 よく覚えてはいないが随分前に、ダニエル・キースの「アルジャーノンに花束を」という小説をだれかにすすめられて読んだ。あれはもしかしたら悲しい話ではなく、楽しい話だったのかもしれない。
 人はいったいどうしたかったのか。さまざまな、実にさまざまなことをひとつひとつ覚えていって、それをまたひとつひとつ忘れていく。いらないもの、どうでもいいものを次々に捨てていって身軽になり、そして空に舞い上がる。

11月13日(火)【偽者】
 こんな言い方もできる。自分がこれまでずっと偽者として偽りの人生を生きてきたような気がするのだ。それに気がついたというか、そんな気がし始めたのは12、3歳のころだったが、還暦をすぎてもまだそんな気がしつづけている。もちろん、職業とか立場とかそんな単純な話ではない。
 自分のやることなすこと、言うこと書くこと、感じること考えること、ありとあらゆることがコピーでしかなく、影でしかないことへの苛立ちと不安、嫌悪感と不全感。もちろん、それをやめようとしても玉ねぎの皮むきにしかならず、役柄であれ衣装であれコピーであれ影であれ、それを一枚一枚むいていってもなにも残らないことはわかっている。
 それにもかかわらず、本来の生とでもいうようなものが実はあり得たのではないか、あり得るのではないかという気がしてならないのだ。イメージとしてはごく単純な幼稚なものだ。たとえば密林でハンモックに寝たり、木の上の家に住んでロープで滑り下りたり、荒くれ男たちと荒海を航海したり、海から上がって島の椰子の木の下でバナナを食べたり、深い断崖絶壁のむこうに飛び移ったり……
 もちろん、こうしたイメージもすべてなにかのコピーであって、その出所もあらかた見当がつく。ターザンやシンドバッやロビンソン・クルーソーやゲバラや、果ては「ファイト一発」のドリンク剤のCMだったりするのだ。
 ただ、こうしてどうせコピーでしかない「本来の生」を飽きもせずに私に夢想させ、何十年も誘惑しつづけてきたそのなにものかが、もしかしたら玉ねぎをむいていった果ての最後の一枚なのかもしれないと思うこともある。

11月11日(日)【種】
 国会前大規模抗議、今日は友人と4人で出かけ、経産省から東電を経て議事堂周辺へのコースをたどった。経産省前も東電前も相当の混雑だったが、議事堂に近づくともう先へ進むのもやっと。互いに心強い人ごみと熱気だった。根気よく執拗に続け、機会を作っては盛り上がる。
 「心の中の反対」を「外で表明」することによって、この黒山の人たちが日本の脱原発の世論を顕在化させ、マスコミや政府に承認させてきたのだ。まだ再稼働を止めるには到っていないが、不特定多数の人が自発的に集まって意思表示する場と、習慣と、リズムがあそこではすでにできている。
 同じ習慣を今の10倍、100倍の人が身につければ、日本は確実に変わるだろう。もしかしたら今すでに変わりつつあるのかもしれない。集まった人々が今日も雨の中、互いの傘のしずくに黙って濡れながら、その種をまいていたのだとすれば。

・雨の中、原発NO 震災1年8カ月、国会前で大規模抗議
http://www.asahi.com/national/update/1111/TKY201211110307.html

11月10日(土)【明日です】
 お互いに、どのくらい集まり、自分たちにどのくらいの力があるかを確かめることのできる久しぶりの大規模抗議です。
 【11.11反原発1000000人大占拠】11/11(日)、15時〜19時 首相官邸前、国会議事堂周辺をはじめとする永田町・霞が関一帯の大規模占拠抗議行動!全国から結集を!ツイートボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1275 (中にエリア・マップあり)
★抗議エリア
国会前抗議 呼びかけ:首都圏反原発連合
官邸前抗議 呼びかけ:首都圏反原発連合
経産省前抗議 呼びかけ:火炎瓶テツと仲間たち
文科省前抗議 呼びかけ:脱原発国民の会
財務省前抗議 呼びかけ:ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)
外務省前抗議 呼びかけ:ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)
厚生労働省前抗議 呼びかけ:原発をなくす全国連絡会有志
東電前抗議 呼びかけ:原発をなくす全国連絡会有志
Jパワー前抗議 呼びかけ:原子力規制委員会を監視する有志市民★催し
経産省前テントひろば うたや踊りなど


11月9日(金)【メシアン】
 
  昨日近藤伸子ピアノリサイタル「20世紀のピアノ曲 VI―メシアンの夕べ」を聴いた。現代文学にしても現代美術にしてもそうだが、優れた作品は広がりと解放感を感じさせてくれる。それも、ことさらにというのではなく、一旦なじんでしまえばなにか当然のような自然な感じで、逆にそれ以前のものがどうしてあんなに窮屈にことさら狭い型にはまっていたのかといぶかしく思えてくるのが面白い。
 音楽が音であったことを思いだし、その音が無限に多様な形であり得ることも思いだす。
以下のプログラム。

前奏曲集 Préludes (1929) より
  Ⅰ. 鳩 La colombe
  Ⅱ. 悲しい風景の中の恍惚の歌 Chant d'extase dans un paysage triste
  Ⅷ. 風に映る影 Un reflet dans le vent
4つのリズムエチュード Quatre études de rythme (1949-50)
  Ⅰ.火の島Ⅰ  Île de feu I
  Ⅱ.音価と強度のモード Mode de valeurs et d'intensité
  Ⅲ.リズム的ネウマ Neumes rythmiques
  Ⅳ.火の島Ⅱ  Île de feu II
鳥のカタログ Catalogue d'oiseaux (1956-58) より
  ヨーロッパウグイス La bouscarle
世の終わりのための四重奏曲 Quatuor pour la fin du temps(1940-41)
      (共演: Vn. 小森谷巧 Vc. 河野文昭 Cl. 三界秀実)

 
11月8日(木)【タイムアップになる前に】
 時間の経過とともに恐怖がすり減っているにしても、地震と原発事故の脅威はいささかも減じたわけではない。今はたかだか幸運にも与えられた猶予期間に過ぎない。それもいつ突然終わるかしれない猶予期間だ。幸運がすり減ってタイムアップになる前になにができるのか。それほど多くはない「できること」のひとつ。われわれの税金で成り立っている東京都がなぜか邪魔しているようだが……。
  
11.11反原発1000000人大占拠
 http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1275

 【重要なお知らせ】首都圏反原発連合では、「11.11 反原発 1000000 人大占拠」の開催に当たり、日比谷公園集合/出発のデモを予定しておりましたが、東京都が公園の使用を認めず、デモ申請を行うことができない事態となっておりました。
11月2日の東京地方裁判所の申し立て棄却をうけ東京高等裁判所への抗告をしておりましたが、本日棄却となりました。
この結果は市民の権利を奪い、表現の自由を侵害するものです。今回の決定をうけ当初予定していた「11.11反原発1000000大占拠」における13時から予定しておりました請願デモについては中止せざるを得なくなりました。ただし、15時からの首相官邸前、国会議事堂周辺をはじめとする永田町・霞が関一帯の抗議行動については開催いたします。
 

11月7日(水)【旅の仲間】
 犬が人と散歩するのが好きなのはだれでも知っているが、猫もそうだということは意外に知られていない。中野にのアパートにいたころ、人通りの少なくなった夜9時過ぎ、歩いて3,4分のコンビニに買い物にいくとき、玄関から、6匹の猫に「行く?」と声をかけると、たいていついてきたものだ。
 浴室の窓のフェンスの間から、むかいのブロック塀に飛び移る形で、一日じゅう自由に出入りできるようになってはいたが、人間とのお出かけはまた別物らしい。みないそいそとついてきて、大通りへの曲がり角にあるマンションのところで「待っててね」というと、ちゃんと植え込みに隠れてじっと待っていてくれた。そして私が買い物をすませてもどって、「行くよ」というと、またぞろぞろといっしょに帰るのだった。
 人間の道連れになってくれるのは犬猫だけではない。新潟県の田舎町の郊外の広大な果樹園の中の一軒屋に住んでいたころのことだ。ある晴れた日、母が近くの朝日山という小さな山に姉と私をピクニックに連れていってくれることになり、歩きだしたところ、意外な連れがいた。犬のクロとシロ、猫のミーとター坊、それになんとニワトリまでぞろぞろとついてきていたのだ。
 そのうちのだれがどこまでついてきて、だれがお昼のおにぎりをいっしょに食べたのか、まったく覚えていない。とにかく人も他の動物もめったに見かけない場所だったから、ニワトリも退屈していて、なにか楽しい目新しいことをしてみたかったのだろう。そこで浮き浮きして歩いている私たちの「旅の仲間」に加わることにしたのだ。

11月6日(火)【好意謝するに】
 家にたいてい猫がいたせいと、鳥かごが苦手なせいで、これまで自分で鳥を飼ったことはないが、鳥も親しくなるとたいそう情愛深い生き物であるらしい。もちろんカラスも。
 鳥の「刷り込み」で知られる動物行動学者のコンラート・ローレンツは『ソロモンの指輪』の中で、オスのコクマルガラスに恋されたほほえましい経験を詳細に語っている。
 彼の家から巣立ったその鳥は、やがて、自分の「直径2,30センチの巣穴」になんとか彼を入れてやろうと努力したり、噛みくだいた生温かい虫を彼の口につっこんでやろうと努力するようになる。その好意に答えず、口を閉じたままでいると、今度は耳の奥のほうまでつっこんでくれるのだという。
 猫の好意なら、わたしも何度か受けたことがある。たとえば一度はある暑い夏の朝だった。ベッドで目を覚ますと足もとになにやら冷たいものが当たっていて気持ちがいい。なんだろうと起きあがって見たら、大きな青虫で、しかも頭はかじってあって、汁が流れていた。道路むかいの広い庭園ででも見つけて、寝ている私のところにわざわざくわえてきてくれたのだ。おそらく、これを食べるか、おもちゃにして遊べというのだろう。
 実に迷惑なのだが、また実に、ことばに尽くせないほど、ありがたいことだった。
 要するに、あれである。

 尻舐めた舌でわが口舐める猫 好意謝するに余りあれども(寒川猫持)
 
11月5日(月)【鳥の声】
 野生の鳥についていえば、町に暮らしていて鳴いている姿を見ることのできるものは多くはない。東京多摩の私の住んでいるあたりだと、カラス、最近めっきり減ったスズメ、それにオナガ、ムクドリ、シジュウカラ、たまに二階の窓のすぐ外の木の枝で鳴いてくれるメジロくらいだろうか。
 ウグイスや、カッコウ、フクロウなどは、子どものころから声は知っているが現物は見たことがなく、ヒバリも姿がわかるほど近寄れたことはない。山や林の中にいけば、ただもうとりどりの声だけである。だがそれだけでなんとなく充分で、現物と突き合わせるまでもない。鳥とは人にとってなによりもまず声であり歌なのだ。
 その美しい歌声が人間の音楽の起源であるかどうかについては意見が分かれるらしいが、厳密に起源といえるかどうかはともかく、音楽に関係がないわけがない。中国には直接鳥をまねようとした有名な伝承曲もあり、20世紀に入ってからも二胡や、ときに笛で演奏される劉天華の「空山鳥語」がある。
 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは神学者でもあり、鳥類学者でもあって、世界中でさまざまな鳥の声を採譜し、「鳥のカタログ」まで作った。何年も前のコンサートでフルート曲のたしか「クロツグミ」を聞いて、笛の「空山鳥語」とやはり似ていると思うと同時に、やはり全然違うと思った記憶がある。どちらにせよ、それは生まれながらの固有の歌声をもたない人間にとっての、それぞれの作曲家と演奏家にとっての、鳥の声だ。
 
11月2日(金)【絵に描いた敵】
 
わたしの観察によれば、猫は写真の像をそれと認識できる。以前、棚のわきに猫の写真のカレンダーをかけたら、ある猫が棚に飛び乗るやいなやとびかかっていった。猫だけでなく鶏もそうらしい。写真でなく、絵でもいいらしい。それもミニマリズムなどではなく、淡白な日本画でも。『雨月物語』の「夢応の鯉魚」によれば、ある名画家の弟子が描いた鶏の絵に、「生ける鶏」が蹴りを入れたという。
 絵に描いた、においもしない敵でも、相手にとって不足がないのは、人間の場合も同じだろう。
 いや、人間の場合は、ときとして絵に描いた、においもしない相手のほうが、かえってとびかかりやすい。戦争とはそういうことだ。いかにも狡猾そうな、貪欲で凶悪そうな、「民度」の低そうな同類の、思い切りラフな絵。いや、絵さえいらないのかもしれない。人間の場合は、猫や鶏と違い、ことばで煽るだけで充分なのだ。見たこともない相手を殺しにいくためには。

11月1日(木)【鏡2】
 映画「シンドラーのリスト」で知られるようになったタルムードの「ひとりの人間の生命を救う者は全世界を救う」ということばは、ひとりの人間の奥行きと広がりを示すものでもあるだろう。
 ひとりの人間が内にはらむ世界はその人にとっての全世界であって、しかもそれがだれであろうと、その人にとっての全世界以上のものなど、ほかにありはしないのだから。生まれおちて以来、見、聞き、触れ、味わい、嗅いできたすべてのものの、想起し得る記憶と、もはや想起し得ないけれどもたしかにどこかに残っているはずの膨大な痕跡。世界の鏡像。
 ボルヘスの「インクの鏡」の中にヤクーブが見た全世界は、もちろん彼自身、彼というひとりの人間のすべてにほかならなかった。
 今日、大学院の恩師、松井博光氏が急逝されたという悲しい報せを受けた。私が少しだけ知っていたひとつの底知れない世界が消えた。べつに慰めにはならないが、しかし、私もすでに、とうに、少しだけ彼の鏡像になっている。学ぶとはまねることだとすれば、まねる甲斐のある方だった。

10月31日(水)【鏡の敵3】
 
 わたしは今朝も白い歯ブラシで歯をみがいた。
 きのうもそうしたように。おとといもそうしたように。その前も日、そのまた前の日も……2万日前も。
 この鏡の中にいるのは今日のわたしなのか、きのうのわたしなのか。
 同じように歯をみがき、同じように歩き、電車に乗り、食べ、飲み、しゃべり……果てしないくり返しとささやかな、ほんのささやかな、歯ブラシの色を変えるような変奏。
 鏡の中のあの人はくり返すためにここにいるのか、それともそれから逃れるためにここにいるのか。

10月30日(火)【鏡の敵2】

 「まったくの偶然だが、わたしたちはよく似ていた。……
勇気をつけるように男は盛んにジンをあおっていたが、やがてわたしに決闘を挑んできた。
そのときだ、誰にも理解できないことが起こったのは。
この威勢のいい間抜けな男が鏡に映った自分のような気がして、
わたしは恥ずかしくなったのだ。……わたしは知らんふりをした」(ボルヘス、鼓直訳)
 
 40年近く前に晶文社から出たボルヘスの『悪人列伝』が今年の春『汚辱の世界史』と原題にもどって岩波文庫に入った。訳者の中村健二氏が解説で述べているように、この最初の短編集の「薔薇色の街角の男」で決闘から逃げた男が、後の『ブロディーの報告書』の「ロセンド・フアレスの物語」でそのわけを語っている。
 これ以上ないほどマッチョな土地で、これ以上ないほど男くさい男だったはずの「めった刺しのロス」が、彼を目当てにやってきて「大口をたたく」これまた男くさい「屠殺屋」との決闘から逃げ、、衆目の面前で川にナイフを投げた理由は、これ以上ないほど簡単だった。自分にそっくりの相手と大口をたたいて殺し合うのが……
 
 「恥ずかしくなったのだ」
 
 マッチョな男を書かせれば右に出る者がいないボルヘスは、マチズモの虚しさとばかばかしさをいちばんよく知っていた作家でもあった。少なくとも日本のあの、もと作家よりは。
 彼とはちがい、ボルヘスは一流作家であり、鏡の敵がだれであるかを知っていた。

10月29日(月)【鏡】
 鏡はやはり不思議なものだ。人は永遠に鏡そのものを見ることはできない。見ることができるのは常に、そこに映っているあれやこれやの像だけである。なにも映っていない鏡というものは、ない。
 それにもかかわらず鏡は、つまるところ、見えないものを見るためにある。まわりにある近くのものも遠くのものもなんでも見ることができるわたしが唯一見ることのできないわたしを見るためのものである。
 しかしそこに映ったわたしは何かというと、これがまたひとつの鏡なのだ。生まれ落ちてこれまで、まわりにいたこの人やあの人、どれほど多くの人の表情や身ぶりや仕草や、鏡を見ることを含めた習慣や、話し方や、その話の中身や、それ以前にことばそのものを映し続けてきたことか。
 わたしが生まれるずっと前の遠い遠い過去から現在に至るまで、本や映画やテレビやネットの中から、わたしという鏡に映りつづけてきた百人、千人、万人、もっと多くの人々の像。その無数に折重なる像の集積であるわたしが鏡を見ていることの不思議。
 しかもわたしは鏡を見ているのではない。鏡を見ることは不可能なのだ。
 ならばわたしはいったい何を見ているのだろう?
 
10月27日(土)【鏡の敵】
 相手がなぐろうとしているからこっちもなぐらなければ
 相手が殺そうとしているからこっちも殺さなければ
 わが身を守るために。
  このいかにもわかりやすい戦争の論理に反駁するのはかならずしも容易ではない。
 相手がなぐろうとしておらず、殺そうとしていないことを証明することは不可能であり、
 一方で、相手がなぐろうとし、殺そうとしている兆候を見つけるのはあまりにも簡単だ。
 それに、こっちが先にあげたのか、むこうが先にあげたのかはともかく、どちらもすでに手をあげかけている。
 しかし、「敵とはわれわれの双生児の兄弟であり、鏡に映るわれわれの姿だ(サルトル「聖ジュネ」)」とすれば、なによりもまず、手をさらにあげるのでなく、下ろすことだろう。互いの身を守るために。
 かりにさらに手をあげて鏡の敵になぐりかかったとして、
 それがどうしてわが身を守ることになるのか? このわが身を……。
 
10月26日(金)【微博】
 石原慎太郎氏の都知事辞任と新党結成に関して、中国版ツイッター「微博」にどんな意見が出ているか検索してみた。気になったもの2件を翻訳してご紹介しておこう。1件めは日本にいる記者らしい。
 
RT: Fさんのかきこみ:石原の記者会見には3つの特徴がある。1)しきりに「シナ、シナ」と連発し、決して「中国」の二字をいわない。 2)かならず日本の外務省を「国辱ものだ」と攻撃する。 3)どうしても答えたくない問題について訊かれると、質問した記者をさまざまに嘲り、今日は直接「まったくくだらないことを訊く」とまでいった。しかもほとんど例外なく、朝日新聞をやり玉にあげる。
(他社の記者たちはどうしているのだろう?おとなしくそれを聞いているのだろうか。)

RT: Zさんのかきこみ: 石原は日本の「極右政客」のひとりで、あの「ひどく退化した」、まともな社会なら相手にもされないような軍国主義の扇動的言論によって世間を茶化して甘い汁を吸い、なんと30~40%の支持を得ている。これでわかるとおり、日本は非常に「侵略性」と「強盗性」を具えた一種ごろつき風の態度をもつ民族であって、こういう民族をおとなしくさせるには、経済、文化、軍事において、徹底的に打ち破るしかない。

 ついでながら人民日報日本語版ではこう報道されている。
日本右翼が新党結成、平和憲法への挑発を図る
http://j.people.com.cn/94474/7992865.html

10月25日(木)【玄武岩の柱】
 小学校5、6年のとき、教室に「学級文庫」という2段の棚があって、自由に借りられる本が何十冊も並んでいた。だれがどう選んだのか知らないが実に充実した品ぞろえで、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンものはもちろん、ノンフィクションものもいろいろあったよう記憶している。その中の一冊で私は初めてアウシュヴィッツのことを知った。
 ある日トラックがやってきて、どやどやと兵士がおりてきて、人々は銃で家から追われ、トラックに載せられていってガス室に詰め込まれる。そしてガス室のドアを開けると、「人々は玄武岩の柱のようにそこに立っていた。」
 本の題名も装丁も忘れたが、この「玄武岩の柱のように立っていた」というくだりははっきり覚えている。これを読んでからしばらくの間は、夜灯りを消して床に就く度に、闇の中で遠くのトラックの音に耳をすませ、そして死の恐怖に戦いていた。
 当時私が想像していた死は、完全な虚無でもなければ地獄でもなく、暗闇の中に意識だけが残り続ける状態だった。ちょうど今、闇の中で横になってじっと死について考えているようなそういう状態が永劫に続くこと。なにもできず、なにもいえない。それはこのうえもなく恐ろしい想像だった。
 後に、ベリャーエフの「ドウエル教授の首」でそれに似た状態のことが書いてあるのを読んだ。しかし、装置につながれて、いかなる意思表示もできないが意識はあるその残酷な状態は、そこではまだ生きていることになっていたようだ。やがて装置が破壊されて教授の首は「死ぬ」ことができるのだから。
 私が当時想像していた死はむしろ「生きながらの死」とよぶべきものだったのだろう。
 
【10.26大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】11/11に向け再び大きな盛り上がりを!大間原発の建設を中止せよ、大飯原発を停止せよ、全原発を即時廃止せよ!10/26(金)18~20時首相官邸周辺で超大規模抗議。ツイートボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=1442

10月24日(水)【闖入者】
 ある日、わが家に突然妙な他人が押しかけてきて、という具合に展開する物語はたぶん少なくないだろう。カフカの「審判」は、ヨーゼフKがある朝ふたりの男に逮捕されところから始まるし、残雪の「わたしのあの世界のこと」は親戚だと称する連中が勝手にはいりこみ、庭の木を植えかえるところから始まり、未訳だが「思想報告」も隣人がやってきて「私」に難癖をつけるところから始まる。安部公房の「闖入者」では見知らぬ老若男女の一家族が押しかけてくる。ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」でもたしか途中にはでな家の乗っ取りがあった。
 静かで平和な家に「私」がひとりいて、その家はずっと静かで平和で出来事らしい出来事もありませんでした、というのでは話にならない。その家や部屋が「私」の内なる世界の寓意となればなおさらだ。その平安は眠りにも死にも等しい。
 しかし、他者の暴力的な侵入が内なる家を活気づけるのはあくまでもそれが寓意であるかぎりにおいてだ。現実の暴力の侵入は外の家をも内の家をもただ無残に破壊する。

10月22日(月)【こんな晩】
 「こんな晩」というタイプの民話伝説が日本のあちこちにあるらしい。
 ある貧しい村のある貧しい家に、一夜の宿を求めて旅人がひとりやってくる。そして夜、寝ているあいだに、その家の者にひそかに殺され、ひそかに埋められたり、池や沼に投げ込まれたりする。そしてその家はにわかに豊かになるわけだが、やがて何年もたったある日の晩、その事件を知らないはずの子どもが突然夜中に起きて、妙な目つきでじろりと親をにらみ、「あれも、こんな晩だったね」というのだ。
 「浅茅が原の一つ家」の場合は、旅人がしょっちゅう泊まるので、その度に「こんな晩」がくり返され、鬼婆一家はそれで生計をたてている。だがやがて娘が親の悪行に耐えかね、旅人のふりをしてわが家に泊まる。鬼婆はそれと知らずに娘を石枕で叩き殺し、初めておのれの罪を悔いるのである。
 不思議というべきか、当然というべきか、フランスにもこれとほとんど同じような話がある。アルベール・カミュの戯曲「誤解」。ただし、長年の旅から帰ってきて殺された息子は、彼を待ちわびていた母親がまさか鬼婆になっていようとはつゆ知らず、諌めるどころか、旅人のふりをしてびっくりさせ、喜びを倍増させてやろうとしただけだったのだが。
 唐の「板橋三娘子」の場合、旅人は殺されず、かわりに宿の女将が夜ごとに怪しいミニチュア人形に作らせる麦で作った饅頭を食べされられ、ロバに変えられて売り飛ばされる。だがある日、それをこっそり見ていた旅人に饅頭をすりかえられて、女将のほうがロバに変えられるのである。
 どの「こんな晩」の連想も尼崎の事件報道に比べれば、まだなにかしら救いがある。物語だから救いがあるのか。それともほんの少しでも救いがあるから物語といえるのか。

10月21日(日)【死と子ども】
 その石段に向かって歩きはじめたのは、もっとずっと前だったような気もする。それは四、五歳のころだった。ある晩目が覚めて、ふと自分がいつか死ぬのだと思い、ひどくこわくなった。まだ灯りがついていた隣の部屋にふすまを開けて入っていって、そこにひとりでいた母に死ぬのが怖いと訴えた。ところが母は「お父ちゃんもお母ちゃんもみんな死ぬんだよ」といっただけだった。 もしかしたらほかにもなにかいったのかもしれないが、覚えているのはこれだけだ。まったく慰めにならない心細い返事だった。
 これで私は、永遠に埋まることのない底知れない暗い淵を内に抱えることになったわけだが、一方でそれがなにかの間違いのような気もして、その深淵に目をふさぎ、なおも僥倖を当てにしていた。自分が必ず死ななければならないというのは、あまりにも恐ろしい、受け容れがたいことだった。
 そしてその僥倖へのすがるような期待と自己欺瞞、それに単純な忘却が、私の子ども時代を保証し、私をそこに閉じ込めていた。

10月20日(土)【覚醒】
 最初の覚醒はだれにでも日付があるのだろうか。
 高校に入ってまもないころ(だったと思う)、友人のTが突然家に私を訪ねてきて、興奮してその体験を語ってくれた。それは最近のある日のあるとき起き、「まるで世界の色が変わったようだった」というのだった。そして彼女は私に、以前からそのことをわかっていたのだろうと訊いた。いかにもそんな風に見え、私ならなら彼女のいうことがわかるだろうと思って訪ねてきたのだという。
 たしかに私は彼女のいうそのことがわかった。それは3年ほど前に私に起きていた。やはりある日のあるときで、ほとんど一瞬のことだった。
 私の通っていた中学は丘の上にあって、私の通学路にはかなり長い広い石の階段があった。ある日の下校時、その長い石段を下りながら、この石段から落ちて死んだらそれまでなのだと、ふと思った。家族は泣いてくれるだろうが、そのときには私はすでにいない。
 以前から知っていたその当たり前のことに、私はこのとき、初めて気づいたかのように気づいた。まるで長い夢から覚めたかのようだった。私はがらんとした長い石段の上にひとりで立っていた。だれも私を守ってくれることのできない死と自由を前に。

10月19日(金)【型のむこう】
 そうはいうものの、作文、あるいは語りのひとつの型から、一歩逃れ出たからといって、なにか新鮮な、のびやかなことばが自在に語れるようになるわけではもちろんない。
 ひとつの型を出た先にはまた別な型がまちかまえている。しかし、それはひとつではない。あることについて、その方向にせよ次元にせよ、こうもいえれば、ああもいえ、また別な風にもいえるのがむしろ普通であって、そのいずれもがどこかで読んだり聞いたりした他人のことばの受け売りや継ぎ合わせでもあり、またそれをなぜか思いついたという意味で自分のことばでもある。
 カフカはこんな風にいっている。
「同一人物のなかにさまざまな認識があり、それはまったく別々であるのに対象は同一である。そこで今度は、同一人物のなかに別々な主体があるだけだと逆推理せざるをえなくなる」(吉田仙太郎訳)
 それをおのれの内なる複数の方向、次元と見るにせよ、複数の主体と見るにせよ、少なくとも文学はその複数性の承認から始まる。

10月18日(木)【作文】
 先日亡くなった丸谷才一氏がずっと以前、小学生には自分の考えなどないのだから読書感想文を書かせるなとどこかに書いていた。まったく同感だ。
 私は小学生のころ、読書感想文を書くのも、ふつうの作文を書くのも大嫌いだった。小学生らしい型どおりのことを書かなければならないような気がして、またそういうことしか思いつかないのだが、そういうことは書きたくなかった。しかし、書かないわけにはいかないので、仕方なくそういうことを書き、いやいや書くので時間もかかり、毎回ひどく後味が悪かったのを覚えている。
 書くことが、わけもなく自らに課したそういう型、ことばの牢獄に入ることではなく、そこから出ようとするることなのだと気づいたのは、中学に入ってからだ。初めはヘッセだのモーパッサンだのゲーテだの、けっこうあれこれ読んでいても、彼らの書き方が自分の作文となにか関係があるとは思いもしなかった。
 ところがある日、たまたま谷崎潤一郎の本を手に取り、あとがきか何かを読んでいたら、彼が中学のときに「厭世思想を許す」という文章を書いているとあった。 肝心の「厭世思想を許す」を読んだのかどうかは覚えていないが、この題名に「おお!」と感動したのはよく覚えている。中学生なのにこんな大人のような文を書いてもいいのか? 
 その問いに答え、私に許可を与え得るのは私自身しかいない、その孤独と自由に気づいたとき、私はようやく大人への道に足を踏み入れたのだった。文学の世界といってもいい。

【全原発即時廃止キャンペーン!19日金曜】11/11に向け再び大きな盛り上がりを!大間原発の建設を中止せよ、原発ゼロを決断せよ、全原発を即時廃止せよ!10/19(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議。「ツイート」ボタンで拡散を→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=1442


10月17日(水)【遠いものも近いものも】 
 こんな風にもいえる。「すべては幻影だ。家族も、オフィスも、友人たちも、通りも、遠いものも近いものもすべては幻影だ。女性も。これがいちばん身近な幻影。でも真実は、お前が頭を、窓もドアもない独房の壁に押しつけているだけのこと」(吉田仙太郎訳)
 カフカがこう書いた91年後の同じ10月。遠くでは逃げることもできずに虐待の末殺された人の死体がつぎつぎに掘り出され、近くには金木犀のにおいがたちこめている。もう忘れかけているにおいなき放射線も。
 
10月15日(月)【虚妄と虚無】
 しかし幻想というにしろ、虚妄というにしろ、人がそういう万遍ない幾重もの影の中でしかやっていくことができないとしても、虚妄は虚無ではない。私たちはじかに世界を知ることができるほどの無知にもどることは二度とできないものの、すでに覚えてしまったことばや文や、おびただしいさまざまなしるしや合図のむこうにたしかになにかが「有る」と信じずにはいられない。だからこそ人は何千年何万年もかけて、忘れ去り、沈黙にもどろうとするかわりに、語りつづけ、影につぐ影を生みだし続けてきた。 むしろ影によって、虚妄によってこそ、有ろうとしてきたのだ。もはやもどることなど思いもよらない今、他の動物とは違う形で「有る」ことを目指した太古以来の賭けは、山のように賭け金を積み上げたまま、土壇場にさしかかっている。元も子もなくなるのか否か。賭けの相手はもちろん虚無である。

 リトアニア原発投票 反対多数
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121015/k10015766461000.html

10月14日(日)【共同幻想】
 とはいえ、猫は猫なりに影を追う。手袋をはめた私の手を相手に格闘するのも好きだったし、机の下でソックスの足の指を動かしていればそのうちにねらい定めてとびかかってきた。子猫どうしは人間のこどもと変わらない鬼ごっこをするし、わざと物陰に隠れて突如躍り上がって相手を襲ったりもする。
 そして、それが本番でなく、相手が本物でないことはちゃんとわかっているのだ。一度、夜中にどこか近所の池から鯉をさらってきたとき、あるいは、雀やムクドリや尾長を何度もつかまえてきたとき、雰囲気はまるで違った。彼らは本気であり、厳しい、はりつめた空気がいやでも伝わってきた。遊びのときには聞いたこともない野獣のうなり声をあげて他の猫たち(たぶん私をも)を威嚇しながら獲物をいたぶり、その不運な獲物を隙を見て救い出すのは容易なことではなかった。
 しかし、そういう経験を何度も重ね、今さらトレーニングの必要もないはずの初老の猫でも、私が紐だの手袋だの持ち出すと、少しけだるそうに、だがそれなりに熱心そうにつきあってくれたものだ。その猫は明らかに、私がわかっているのと同じことをわかっていた。私たちは同じ幻想を共有し、それが幻想だとわかっていた。

10月13日(土)【猫と読書】
 私は長いこと猫を飼っていた。中野のアパートにいたときは、6匹の猫が狭い部屋の中をわがもの顔にに行き交い、ときどき、その部屋には不釣り合いに大きい机の上に飛び乗って、本を読んだり、仕事をしたりしている私の前にじっと坐っていたものだ。猫たちは私が何をしているのかを、まったく知らなかった。
 しかし私のほうはそれを少しでも知っていただろうか? 私はたしかに本を読んでいたが、本を読むということは決してたしかなことではない。それはおそらくなにかの影に魅せられてその影を追い続けることであって、しかも本から顔をあげたところで、影以外のものが見えるわけではない。もちろん、本を読みながら追っている影よりも馴染みの深い影ではあるが、それも影であることには変わりはない。
 猫たちは目の前に、そこに私がいるけれども、実は常にそこにはいないことを知らなかった。そして私はそこにいた猫たちが見ていたはずの、影ではないなにかを見ようとして本を読み続けてきたのかもしれない。

10月12日(金)【夢と負債】
 わたしたちのこうした現実について語り続けるのは、ひどく虚しいと思うこともある。結局のところ同じような不平を繰り返しいっているような気がする。同じような仕様のないことこが津々浦々で昨日も今日もくり返されているのだから、仕様がないといえば仕様がないのだが。
 それにどの道、わたしたちにはこういう現実以外に語り得るものはないのだし、しかも自分がその現実の構成員であり当事者であり発生源であるのだから逃げようがない。
 しかし不平をいいつづける者は、もちろん夢を見つづけることもでき、また、見つづけないわけにはいかない。
 
「夢想には現実への飢えとでもいうもの、債務や要求、負債証書に対して気づかぬうちに増大するある請求権―現実はそれに応ずる義務を持つ―のようなものが含まれている」(ブルーノ・シュルツ、工藤幸雄訳)
 

10月11日(木)【議員はなんのために?】
 浜岡原発の稼働について
 必要数の3倍近い16万人分の署名を集めた住民投票の直接請求。
 川勝知事が賛成意見を付けて静岡県議会に提出したが否決された。
 大阪市議会、東京都議会に次ぐ3件めの否決だ。

 議員たちは根本的な勘違いをしているのではないか?
 問われたのは、原発稼働の可否ではない。
 それについての民意を問うか否かである。
 ところが、民に選ばれてそこにるはずの多数の議員が平然と否と答えた。
 「国策である原発再稼働の是非を住民投票で問うのは妥当ではない」のだそうだが、
 住民の命がかかる重大事について、自ら議論もせず、民意を問うことさえ拒むのだとしたら、
 その議会はなんのためにあり、議員はなんのため選ばれてそこにいるのか?
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012101190135417.html

・【全原発即時廃止キャンペーン!12日金曜!】11/11に向け再び大きな盛り上がりを!野田内閣は原発ゼロを決断せよ!全原発を即時廃止せよ!10/12(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議!「ツイート」ボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=1442
・【11.11反原発1000000人大占拠】11/11(日)午後、官邸前、国会議事堂周辺をはじめ永田町・霞が関一帯で未だかつてない超大規模大占拠!全国からの結集を!※詳細決まり次第サイトでお知らせします。ツイートボタンで拡散にご協力を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1275
 
10月10日(水)【近隣とのいさかい】
 世田谷区野沢で起きた近隣トラブルによる殺人事件。報道ステーションがトップでかなり詳細に報じていた。どうやら植木の問題から始まったらしいが、86歳の老人がなぜ向かいの家の初老の女性を殺して自殺するようなことになったのか、やはり合点はいかない。合点がいくはずなどないのだ。たかが植木のために……。

・「領土問題」の悪循環を止めよう!――日本の市民のアピール――
 http://peace3appeal.jimdo.com/アピール本文/ (署名できます)
・大江健三郎氏ら識者 領土紛争に「反省」の声明
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120928-00000035-yonh-kr
・中国知識人「理性取り戻そう」 尖閣で悪化の関係改善に
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012100801001732.html

10月9日(火)【他人まかせ日本3】
 たいていの人が知っている有名なジョークがある。
 飛行機のエンジンがが片方壊れる場合と、船が浸水する場合と2通りあるようだが、どちらにせよだれかが飛び降りて機体、船体を軽くしないと、墜落、沈没してしまう。
 そこで、飛び降りてもらうための国別勧誘法である。
 アメリカ人には、「飛び下りれば、ヒーローです」
 イタリア人には、「飛び下りれば、もてますよ」
 ドイツ人には、「飛び下りる規則になっています」
 フランス人には、「飛び下りてはいけません」
 日本人には、「みんな飛び下りてますよ」

 他の国向けのが当たっているかどうかはよくわからないが、日本人向けは確かに当たっている。このジョークはもしかしたら日本人が作ったのだろうか。だとしたら、当たっていることは自慢できるが、中身のほうはまったく自慢にならない。
 要するに判断するのは自分ではなく、他人ということだ。自分より他人の判断のほうが信頼でき、まさに「我以外みな師なり」であり、だれであれ、他人でさえあれば「他人様」なのだ。自分で判断して行動するのがよくよくきらいなのだ。
 しかし、どうしてだろう?

10月7日(日)【他人まかせ日本2】
 ずっと前から気になっているひとつの問い方がある。
 こういう形式だ。

 あなた方は日本の原発に反対するデモをしてるけど、
 他の国にはもっとあぶない原発がある。
 なぜ反対のデモをしないの?

 こういうのもあった。

 あなた方は警戒区域の動物がかわいそうだと救援しているけれど
 他にもかわいそうな動物はいくらでもいる。
 なぜ他の救援はしなくていいの?

 こういう形式が、日本じゅうの掲示板やツイッターに氾濫している。
  行動するごく少数の人に、行動しない無数の人がけちをつける。
 その行動が不十分、不完全で、一挙全面解決をもたらさないと、苛立ちながら……。
 この形式で相手を追及しているつもりなのだろうか?
 ひとつひとつに返事をしたくなるが、まさに浜の真砂で到底手がまわらない。
 そういう書き手はこのサイトなど見てくれそうにないが、念のため、下にまとめてレスしておこう。

 「あなたがやれば?」

10月4日(木)【他人まかせ日本】
 
 いやはや……。
 
・ 「再稼働の判断しない」原子力規制委が見解
 http://www.asahi.com/politics/update/1003/TKY201210030371.html?ref=reca
・ 前原氏「再稼働は規制委が判断」 政府関与を否定
 http://www.asahi.com/politics/update/1004/TKY201210040480.html
前原大臣 原発輸出は相手国に応じて…「これから原発を導入する国の判断によるのではないか」
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121004/k10015528321000.html

10月3日(水)【動物の地震予知】
 ツイッターの検索ワードに10語ほど登録しているが、その中に「地震」がある。昨日これで見たら大にぎわいだった。
 1日の小地震回数が異様に増えていることを指摘する人もいれば、磁気がどうとかで「禁固刑覚悟で」大地震を警告する人もいる。地震の夢を見たという人も、「地震雲」を見たという人も、耳鳴りがするという人も、それこそ数えきれないほどいた。ペットの動物が騒いでいるという報告もあった。
 そして今日夕方、東北で震度4があった。
 結論: べつに専門家でなくとも、ナマズやカラスや魚でなくとも、犬や猫でさえなくとも、この人間という動物が多数騒ぎだすときは、やはり要注意のようだ。

10月2日(火)【できもしない約束】
 まったくのうろ覚えだがこんなジョークをどこかで見た。
 
 国王の前に引き出され、処刑されようとする男が、1年の猶予をくれと国王に頼む。
 そうすれば馬が空を飛ぶようにしてあげるからと。
 猶予を得てもどってきた男に、看守だか友人だかが、どうしてそんなできもしない約束をしたのかときくと、男はこう答える。
 1年あれば、その間に
①国王が死ぬかもしれないし
②自分が死ぬかもしれないし、
③ひょっとしたら、馬が空を飛べるようになるかもしれない

 できもしない約束をする者は、相手か、自分か、その両者の死を期待するしかない。

10月1日(月)【パターン】
 大間原発の工事が再開される。お馴染みのあのパターンも再開される。

 経産相をはじめ、関係者のだれひとりとして
○安全だとは信じていない。
○だが再開できなかったらその責任をどう取ればいいのかわからない。
○反対するのはあまりにも面倒だ。
 爆発するにしても
○どうせ先のことだし、
○どうせ自分が責任を問われることはないし、
○どうせみな死んでいるかもしれない

 Jパワー、大間原発の建設再開へ 事故後初、経産相容認で
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012092801001723.html
  「大間原発 驚きの別世界」:6000人の町に2010年までに68億円。単純平均で一人一千万。
 http://www.youtube.com/watch?v=Z0CMb_pO-yo&feature=youtu.be
  函館市長、原発中止求め提訴へ 来春にも、大間建設問題
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012100101002056.html
 大間原発「ノー」 市民団体、函館でデモ
 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/408192.html

9月30日(日)【ほどほどの本】
 年を取るにつれて、読みたくない本がどんどん増えてきた。2,30年前は、中国文学の新作紹介の雑誌連載の仕事をしていた時期もあって、ほどほどに面白い程度の作家のものでも全作品に目を通すようなことまでしていた。おかげで速読力もつき、中国の文学状況なるものについて、少しはそれらしいこともいえるようになった。
 しかし近頃は年を追うにつれてそういうことがいやになっている。面倒くさいというよりも、耐えられない。舌が肥えてきたせいもあるだろうし、人生の残り時間と、目の疲れが気になってきたせいもあるかもしれない。いずれにせよ、ほどほどの作品に時間を割く余裕はなくなっている。
 それにもともと私が本を読んできたのは、人間がいかにほどほどで、型どおりであるかを知るためではない。むしろ、そういうほどほどの型に自分を首尾よくはめこんだつもりでいる人間が、実はいかに怪しく、変てこで、でたらめで、不思議で、恐るべき生き物であるかを知りたくて読んでいるのだ。

9月29日(土)【群れる理由】

 人間が、結局は身の安全をはかるために群れ、社会を創り上げてきたのだと思うと、やはりため息が出る。ただもうわが身の安全のために、なんと長いあいだ、なんと多くの人が、なんと多くのやりたたくもないことをやり、なんと多くのやりたいことをあきらめてきたことか。ところがその群れは、しばしば、その身の安全さえあきらめよと要求してくるのだ。 

9月27日(木)【ついに半年】
 
「官邸前抗議も開始からついに半年!」。人数はさすがに減ったが、それでも続いている。これからどうなるか、状況は予断を許さない。「やらないとやられる」のツイートも見かけた。たぶんそうだろう。

・RT 野菜にも一言いわせて!さよなら原発デモ@demo_yasaiさんのツイート:原油と石炭の価格の上げ下げも大切かも知れませんが、一喜一憂せずに廃炉の道を突き進んで欲しいです → 時事ドットコム:電力10社が値下げ=原油・石炭価格下落で-11月 jiji.com/jc/zc?k=201209
・RT エネルギーシフトパレード@enepareさんのツイート:【涼しくなったのでますます声をあげよう!】夏の需要もほぼ原発いらずで乗り切りました。秋を超えて冬だって1年中いらない。大飯を停めて、即時ゼロへ
 【9.28大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】官邸前抗議も開始からついに半年!大飯原発をただちに停止せよ、全原発を即時廃止せよ、原発ゼロを閣議決定せよ!9/28(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議!「ツイート」ボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1213

9月26日(水)【ゲームと翻訳】
 お互いに不思議なことだが、世の中には、ゲームが好きな人と、好きでない人がいる。私はどちらかといえば、明らかに「好きな人」のほうだ。子どものころからカルタ取り、トランプや小人の帽子、シンルード、なんでも大好きで、止めなければならないときは残念で仕方がなかった。
 中学1年で百人一首のカルタ取りの小さな集まりに連れていってもらったときはもう有頂天で、それから何日も下の句を見て上の句の決まり字を言えるよう練習し、高校ではクラス対抗で優勝したりしたが、惜しいことにその後、これといった機会はなかった。
 チェス、将棋、中国将棋、花札、オセロ、マージャンなどもひととおり手を出した。しかしルールを知っているという程度で、強い弱いなどというレベルではない。別に相手に勝ちたいというのではなく、ある特別なルールが支配する場所に身を置きたいという欲求があったようだ。
 電子ゲームをするようになって、もうひとつの欲求に気づいた。止み難い完成への欲求である。ドラクエ、FFを始めとするさまざまなファミコン、スーファミのRPG。頼みもしないのにWINDOWSについてくるおまけのゲームもついついひととおりやってしまう(フリーセルは気分転換に最適だ)。
 ネット・ゲームの元祖ウルティマ・オンラインは、ネット・ゲームというものがどういうものなのか知りたくて入ったまま、中に城まで持って、気がついたら14年もその世界の住人をしていた。今はご多聞にもれず過疎化しているが、このヴァーチャル世界がいつまで続き、どのように滅びるかを見届けたいと思っている。
 これまでゲームに費やした時間は膨大だが、私がさらに多くの時間を費やしてきた本業のほうも、ひとつのゲーム、壮大な言語ゲームだった。ある言語がもたらすのとそっくり同じイメージ、ニュアンス、そして世界そのものを別な言語で立ちあげようとする誘惑と絶望と歓喜に満ちた不可能なゲーム。ある特別なルールが支配する場で、完成を目指してほとんど果てしなく続けられるひとりゲーム。とりわけ残雪の翻訳ではそこを支配する特別なルールさえ、まだ探っている最中だ。
 
9月25日(火)【ジョンの晩年】
 年に一度のゼミ合宿で山中湖の研修所に行って来た。そこには管理人さんが10年以上前から可愛がっている茶色い、ひとなつっこい犬のジョンがいる。
 一昨年に会ったときは、次回はもう会えないのではないかと思うほど老いぼれて、よぼよぼに見えた。それでも鎖につながれっぱなしで、かわいそうな気がしたので、職員の方に、こんなに年寄りで咬みつくこともないのだし、敷地も広いのだから、放してやってもいいのではと提案してみた。
 それから部屋に帰ってややしばらくしたころ、窓の前を何か茶色いものが、ものすごい勢いで、矢のように突っ切っていくのが見えた。急いで窓を開けて見るとやはりジョンで、よぼよぼどころではない。何年ぶりか、もしかしたら大人になって初めて放してもらったのだろうか、そんな気がして思い出す度に嬉しくなっていた。
 ところが今回行ってみたら、そのジョンがいつもの場所にいない。ついに死んでしまったのかとがっかりしていたら、翌日広い車庫の中に間口2、3メートル、奥行き4,5メートルほどもの広い囲いがあって、その中の犬小屋の隣に敷かれたピンク色の座布団の上に寝ているのを発見した。
 相変わらずかわいいつぶらな目をしていたが、立つのがおっくうらしく、こっちには来てくれなかった。帰る間際に、管理人さんに放してはやれないのかと聞くと、周囲に点在する別荘の住人から苦情が出るからだめなのだという。
 あんな山の中でも、小さな年老いた犬のことで苦情をいい、迷惑がる人がいるのだ。おかげでジョンの晩年の世界も、広いとはいえ数メートル四方の囲いの中にかぎられることになった。
 しかし、研修所を出ようとしたとき、管理人さんの姿が見えず、ケージのドアが開いていて犬の姿も見えないことに気づいた。きっと散歩につれていってもらえたのだ♪

9月20日(木)【「どんな国にも有効」な方法】

 日本のマスメディアのあり方を厳しく批判しつづけ、今年6月に亡くなったジャーナリスト・弁護士の日隅 一雄氏は、ちょうど2年前の2010年10月、尖閣問題についていくつかの文章をブログに発表していた。
・「なぜ、中国は尖閣諸島を自国の領土だと主張するのか~マスメディアは対立をあおるな」
 http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/20469b0d35cdeb5c0aebd110b7ca67a2
・【尖閣諸島】地下資源が見つかる前に台湾の人が住みついていた~国会答弁にみる尖閣問題
 http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/fcf20d030c40b70e02de804cf5c04876
・【尖閣諸島問題】日本領有の根拠(感謝状など)は中国からはどう見えるのか?
 http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/7ac70c6490c132f833f5a4eac0a142de

 この文章が書かれて2年後、日隅氏が亡くなってほんの3カ月後のありさまはご覧の通りだ。
 同じブログの中で日隅氏は、ナチスのゲーリングの「国民を指導者のいいなりにする」「どんな国にも有効な方法」についての発言を紹介している。

 ★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて:Gilbert's Nuremberg Diary)

 【大飯原発即時停止/全原発即時廃止/原子力規制委員会人事案撤回】9/21(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議。「ツイート」ボタンで拡散を→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1192

9月19日(水)【骨なしと骨抜き】
  そういわれたから仕方なく決めたんです。
  でも今度はああいわれたから仕方なくやめたんです。
  だから自分にはなんの責任もなく、悪いのはみな、ああだこうだという他人です。

 まさに日本人の、日本人による政府という感じだが、日本人のための政府では決してない。
 政府の新エネルギー戦略、2030年原発稼働ゼロ目標は、「原発がある自治体や経済界などの反発に配慮」して、早速骨抜きにされ、閣議決定さえされなかった。
 もともと、2030年まで大地震や津波が待ってくれる約束もないのだし、危ないから止めろといってきた脱原発派の人々からも批判が続出していたが、決めてからたった5日めでこのていたらくとは……
 最初からこういう筋書きだったのかもしれないが、せっかく支援を表明してくれたドイツもとんだ肩すかしを食った。まさか日本の政府がこんなに骨なしで、「仕方なく」原発ゼロを決めていたとは思いもよらなかったことだろう。
 
 「原発ゼロ」新戦略、あいまい閣議決定 骨抜きのおそれ
 http://www.asahi.com/politics/update/0919/TKY201209190271.html
 「支援できる」脱原発のドイツは協力を表明
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/120914/erp12091422180004-n1.htm

9月17日(月)【決着】
 尖閣諸島は
 うたがいもなく日本のものだという主張がある。
 うたがいもなく中国のものだという主張もある。
 それぞれの主張に対する反論がある。
 その反論に対する反論もある。
 それぞれに根拠があり、それぞれに解釈があり、これまでの歴史があって、
 互いに、こんな明白なことをどうして相手が認めないのかと腹を立てている。
 しかし一方で、相手が決して認めるはずがないというのもわかっている。
 そして結局議論では決着がつかないことも、それでもなお決着をつけようとすれば何が起こり得るかもわかっている。
 その何かが始まろうとしている。せっかく前の世代が棚上げにしたものを、後の世代の愚か者が無理やり取りおろしたからだ。後先かまわず山羊を置き去りにしたあの小さな島が誰のものか、その決着をつけるために、後先かまわず突き進もうというのだろうか。
 もう取り返しはつかないのか、それとももう一度、棚に上げなおす余地が残っているのか。
 
9月16日(日)【過去に目を閉ざす者】
 まもなく9月18日がやってくる。1931年のこの日、関東軍が自ら南満州鉄道の線路を爆破しながら、それを中国軍がやったとして攻撃を開始、関東軍による中国東北部(満州)全土の占領を経て、日中全面戦争に到る。
 柳条湖の線路の損傷はWIKIPEDIAによれば、レールの片側わずか80センチ、枕木2本ほどの小さなものであったらしい。しかしこの日本側の謀略によって始まった戦争による死傷者は膨大な数にのぼる。
 日本のネット上には以前から、中国側の発表する数字が過大だとする意見が多数見られたが、当時も今も正確に数えられるはずのない死傷者の数を、かつて加害者だった側が、多すぎるだのいいかげんだのと言い立てるのはあまりにも見苦しく、恥ずかしい。
 殺されもせず、負傷もしなくても、肉親を失い、恋人や友人を失い、生活を破壊され、故郷を追われ、難民となり、他国の兵士に威嚇され、凌辱され、侮辱され、恐怖と不安にに戦いてきた、さらに多くの人々の15年の苦しみは、いったいどう数えるのか。
 加害者だった側が何よりも先にやるべきことは、殺傷し、苦しめた人の総数を、被害者がいうよりも少なく数えなおすことではなく、文字通り数知れない人々にしてしまったことと、ひとりひとりの苦しみを思い浮かべ、「心に刻むこと」だった。
 それはつらいことだが、断じて「自虐」などではない。むしろ、私たちがワイツゼッカー氏のいう「人間としての力」を取り戻し、「平和の能力」を育てることにつながったはずだ。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」

 敗戦40周年の1985年、西ドイツのワイツゼッカー大統領が行ったあの演説を、さらに30余年を経て、また読みなおさねばならない状況が起きてしまっている。

 「荒れ野の40年」 http://ameblo.jp/study2007/entry-10236801513.html


9月15日(土)【マイ国家】 
 星新一の「マイ国家」という見事なショート・ショートがある。
 ある銀行員が預金勧誘に行って、ある家に迷い込む。「真井国三」という表札も出ており、普通の民家だと思っていたら、それがなんと独立国で、彼はたちまち不法入国で逮捕される。家のあるじはいう。
 「国家とはどういうものか知っているか。一定の領土と、国民、それに政府つまり統治機構。この三つがそろっているもののことを言う。領土とはこの家、国民とはわたし、政府もわたし、小さいといえども立派な国家だ。そこへ外国人が不法に侵入してきた。……」
 銀行員はスパイ容疑で死刑判決を受け、自国の外務省への電話を許されるが、「マイ国」に逮捕されたと訴えても要領を得ず、あやうく死刑を執行されそうになる。
 読んでいくうちに読者も、やがて発狂する銀行員と同じ考えを共有するようになる。この家のあるじが狂っているわけではない、国家というものはもとよりそういうもの、妄想の産物なのだと。
 国章(マイ国では「三」)も、あやしげな建国神話も、大地にも海にももともとなかった国境線も、国民と政府の妄想の産物でしかない。しかしそういう妄想の国がひとつの現実としてありありと姿を現わすことがある。
 「マイ国」の見えない国境線を、「マイ国」国民とは別な妄想をもつ外国人が踏み越えたとき、それは、ひとつの暴力として、死の威嚇として顕現する。そしてマイ国のあるじは、殺されようとする銀行員の恐怖によって、見えない国家を見える国家にするのに成功し、国家のために正義を貫くのに成功する。
 しかし本当に成功したといえるのか? マイ国に威嚇された銀行員は、発狂して釈放されるが早いか、もちろん、すぐさまもうひとつのマイ国家の顕現化にとりかかる。国章、建国神話、……そしておそらく、当然のことながら、以前からのもうひとつの国境線ももつ、もうひとつの正義の国の顕現化に。
 
9月14日(金)【金曜日】
 政府は「原発に依存しない社会の1日も早い実現」を目指し、、「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするようあらゆる政策資源を投入」し、「クリーンエネルギー」の普及拡大を図る新しいエネルギー政策を決めた。
 原発稼働年数を40年に制限し、新設増設はしないという一方で、再稼働はするつもりでいるし、使用済み核燃料の再処理は続けるという、大問題と大矛盾を抱えており、しかもこの政策そのものを「不断に見直していく」というのだから、まったく安心はできない。
 だが、当初15%に誘導しようとしていた政府に「原発ゼロ」を明文化させたのは、一歩前進であることもたしかだろう。それが、これまで沈黙していた多くの人々が、はっきりと声をあげた結果であるのはいうまでもない。
 「ゼロ」発表の後、首相官邸前の金曜恒例の抗議集会はどうなっているだろうと、今日も行ってみたら、やはり到るところで長い人の列と熱気あるシュプレヒコールが続いていた。以前に比べれば人数は減ってはいるが、もはや毎週の人数など大した問題ではなく、だれも数える気もないようだ。
 事態が急を告げれば、人々がまた一挙に数を増してここに集まり抗議の声を上げるのはわかっているからだ。私たちはすでに集まり、声を上げる習慣を身につけている。

 「この日本を変えてゆけ!」【人々の輪が広がり続ける、首相官邸前の抗議行動・彼らは日本を変えることができるのか?】 アメリカABCニュース 8月26日
 http://kobajun.chips.jp/?p=4405 (星の金貨プロジェクト)

9月13日(木)【現実的なこと】
 
 
菅直人元首相は彼のブログの「今日の一言」にこう書いている。「経団連幹部や読売、産経は、『脱原発は非現実的』と主張する。つまり、今回の原発事故の現実を無視し、原発事故はもう二度と起こらないと考えることが「現実的」と言っている。誰がそのことに責任を負えるのか。子供や孫の世代に責任を負えるのかを聞いてみたい。」
 http://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-11353492749.html
 
 
経団連やムラの御用新聞ばかりではない。日本のほとんどの組織が、企業も役所も政党も学校も、組織防衛と金勘定以外に「現実的なこと」はないと思っているように見える。
 
報道ステーションで連日行われている自民党総裁選立候補者へのインタビューを聞いていても、それを思い知らされた。ひょっとしたらこの国の次の首相になるかもしれない5人はみな、つい一年半前の福島の事故、菅氏のいう「国家存亡の危機」が、現実にあったことを本当に忘れてしまっているかのようだった。

 
・原発ゼロ「30年代」明記へ 核燃サイクル見直し先送り
http://www.asahi.com/politics/update2/0913/TKY201209120766.html(朝日)
・ 原発ゼロ「承服できない」 経団連会長、首相に電話
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012091301001651.html(東京)
・ 「原発ゼロ」戦略に反発拡大 立地自治体や関係国
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012091301001782.html(東京)

 【9.14大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議】9月は原子力規制委員会人事案反対強化月間!合同庁舎第4号館前に人事案反対の抗議エリアあり!9/14(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議!「ツイート」ボタンで拡散を!→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1160


9月10日(月)【SNS】
 私が中国語の小説を翻訳し始めた時期は、字を書くのに鉛筆やペンでなく、キーボードを使い始めた時期にほぼ重なっている。1987年、『中国現代小説』(蒼蒼社)の同人に加えてもらい、訳文をそこに載せてもらったのだが、その条件が富士通のワープロ、オアシスを使うことだった。
 その翻訳会の世話人の方が、これでもう「自分用の印刷工場をもったようなものだ」と感動を込めていっていたのをまだ覚えている。たしかにそのとおりだった。その後、ワープロをNECのパソコンに変え、インターネットにつなぎ、最初のMMORPG、ウルティマ・オンラインに興じ、ゲームのBBSで議論し、ウェブ・サイトを作り、今ではツイッターやフェイス・ブックもやっている。
 気がついたら自分用の「印刷工場」ばかりか、郵便局やささやかな出版社や新聞社を持ち、そして化け物のように巨大な資料館まで持っていたというわけだ。そしてこのことが世界中で起きているのだ。
 インプレスによれば、日本のソーシャルメディア人口はこの1年だけで千5百万人も増えて今や5千万人を越え、そのうち投稿や書き込み等の情報発信を行っている人が3千万人を越えているという。
 書いたものが売れようが売れまいが、不特定多数の読者にむかって発表する人を「物書き」と呼ぶならば、ネット上にはすでに3千万人の物書きがいることになる。万人が自分用の出版社やテレビ局を持ち得るようになった今、何が起きようとしているのか。書き方はどんどん変わっていくだろう。だが書くことの意味はどう変わるのか、あるいは変わらないのか。
・インプレス『ソーシャルメディア調査報告書2012』8月24日
 http://www.impressrd.jp/news/120822/socialmedia2012
・ニールセン「SNS視聴率」7月度
 http://media.looops.net/sekine/2012/08/23/neilsen-netview-201207/
  
9月9日(日)【19兆円と10億円】
 本日のNHKスペシャル「シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算 19兆円」は、予想どおりげっそりするような話ばかりだった。19兆円のうち10兆円は増税によってまかなわれる。つまり赤ん坊まで含めて単純に頭割すれば国民ひとりあたり10万円近い負担となる勘定だが、このお金が、相も変わらぬ各省庁の予算分捕り合戦の結果、必要なところにはさっぱり届かず、風が吹けば桶屋がもうかる式の「波及効果」を口実に、沖縄の道路工事や岐阜のコンタクトレンズ工場など被災地とはどう見ても無関係なところに気前よく注ぎ込まれているらしい。
 ほかにも
・外務省「青少年交流事業」外国人を年間1万人招待してただ旅行させる計画。72億4700万円
・経産省「低炭素社会を実現する革新的融合」約15億円
・農水省「反捕鯨団体対策費」22億8400万円
 
 そして、肝心な被災した事業主たちへのグループ補助金は、申請者の半分にも渡らなかった。 被災して、「首をくくる」覚悟で再建を目指している人々にさえろくにとどかない補助金が、被災動物のもとにどれほど届くのか。
 環境省の25年度重点施策にもそれらしいものは見当たらない。「外国人ただ旅行」の72億円はもちろん、「反捕鯨団体対策費」の22億円でもあれば、警戒区域で生き残った牛の全頭を救い、県や民間の被災犬猫シェルターの環境を一挙に改善し、それによって雇用創出することもできるはずなのだが。
 いや、19兆円のうち10億円でもよかったのだ。昨年、警戒区域の動物救援を強力に支援してきたある人は「だれかおれに10億円くれよ!」とツイッターで叫んでいた。
 
・RTstudy2007@study2007さんのツイート: 「NHK 追跡 復興予算19兆円 2012年9月9日 視聴メモ」をトゥギャりました。 togetter.com/li/370313
 この番組は9月12日(水)の深夜(13日午前)0:25から再放送予定される。

9月8日(金)【ふたつの問い】
 相変わらず、ふたつの問いの投げ合いが続いている。

 ①「原発を止めたら、日本がどうなるかわかっているのか?」
 ②「原発を止めなかったら、日本がどうなるかわかっているのか?」

 たぶん、どちらも本気で心配しており、どちらも本当の答えはわかっていない。
 ひとつだけわかっているのは、②の問いの答えがわかったときには、もう、取り返しがつかないということだ。

・RT 飯田哲也(いいだてつなり)@iidatetsunariさんのツイート:拡散!RT @littlepencil_: 超拡散☆ 村田光平元スイス大使が9/5に野田首相に送った書簡。飯田さんがご本人の了解を得て公開。最悪の事態の前に立場を超えて本気で取り組んでくれないとマジヤバい4号機問題。ぜひ拡散を〜☆ p.tl/ssE4

9月7日(木)【実験】
 総選挙がらみの報道が増えている。マスコミの論調を見れば見るほど心配になる。次回の総選挙、本当にどうなるのか? へたをすると原子力ムラと金融大資本を守り、原発利権システムを守るために、なんの外交努力もせずにいたずらに隣国と事を構え、ますますアジアで孤立し、だから国家の安全保障のために原発と核保有と軍隊が必要だと公然といいたて、理想も理念もないのはもとより、安全も、原発が危ないという言論の自由さえ脅かされるとんでもない国にもなりかねない。
 いや、しかし、他人ごとのような、見物人のような言い方はやめよう。私たちがこれからどうなるか、ではなく、これからどうするか、なのだ。これまで、この国のシステムも、大手マスコミのあり方も、多数の人々が自ら動いたときどんなことが起きるかも、少しはわかり始めてきている。

・「30年代に原発ゼロ」目指す=民主提言、政府戦略に反映へ
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201209/2012090600840 (時事通信)

 わかり始めた人がわかる人をもっと増やしながらさまざまな実験を続けるしかない。
 こんな実験もすでに始まっている。

・緑の党: (「結成宣言」はシンプルで共感できました。)
 http://greens.gr.jp/about/join/

 【9月は人事案反対強化月間!7日金曜!】大飯原発を直ちに停止せよ!合同庁舎第4号館前にて人事案反対の抗議エリアあり!原子力規制委員会人事を撤回せよ!9/7(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議!「ツイート」ボタンで拡散を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1141

9月5日(水)【拾い猫】
 あれは拾ったというよりも、むこうが勝手に住みついたというべきかもしれない。十年以上前のことだ。
 ある日、わが家のブロック塀の上に見知らぬ白っぽいベージュ色の猫が鳴いていた。普通の猫よりやや小さめでガリガリにやせていたが力強い声で私に向かってニャーニャー鳴いていた。
 家にはすでに老描が一匹いたので、そのへんも察して来たのかもしれない。食べ物をよこせといっているのは明らかだったので、早速ミルクだの猫缶だのを与えたところ、がつがつと電光石火で平らげて、平らげるが早いか、また大きな口を開けて、力強い大声で、鳴きつづける。
 空きっ腹に餌を与えすぎると危険だと思い、しばらく間ををあけたが、とにかくその間じゅうまったく休みなしに鳴きつづける。おそらく地獄のような飢えを経験してきたのだろう。見つけた金ヅルならぬ餌ヅルを絶対に離すまいという覚悟のようなものが感じられた。
 鳴き方は「ねだる」などという生易しいものではなく、まぎれもない命令だった。「餌!餌!」、「飼え!飼え!」と命じられて、結局飼わせていただいた。始めは先住者の老描への配慮から、慣れない大工仕事で猫小屋を作り、しばらくテラスにいてもらったが、間もなく老猫と同じ猫ドアを使って入ってくるようになり、要するに家猫になった。
 それでも人の顔さえ見れば大きな口をあけて大声で「餌!餌!」と鳴く習慣は変わらず、うるさいといったらなかった。しかしこれまでの誰も知らない恐ろしい半生を想い、そういう猫なのだと半ばあきらめていた。
 それから何年もたってから、ある日ふと、「シロ」と名付けたその猫が、いつのまにか、ほとんど鳴かなくなっていたことに気づいた。ときたま甘えて鳴くことはあっても、命令口調は消えていた。そうなってからまた何年も生き、数年前に好物のアジを少し食べて、私の枕の上で手を握られたまま死んだ。
 家にくるまでどんなことがあったのか、何歳だったのか、どこから来てどこへ行ったのか、すべては謎のままである。 (この猫です→休憩室

9月3日(月)【捨て犬】
 思い出すのもつらい思い出がある。犬を捨てたことだ。それも二度も。
 十代の始めのころのことだ。うちには私が頼みこんで飼ってもらった親子の犬が二匹いて、私が散歩係だった。ある日、たぶんその散歩の途中で、肥溜めに落ちた犬を見つけた。だれが投げ込んだのか、だれがすくいあげたのか、詳しい状況はまったく覚えていないが、とにかくいっしょに連れて帰り、水で洗ってやった。
 白っぽいベージュ色の犬だ。わが家の犬は柴とその雑種だったが、ちょうどそのくらいの大きさの人なつっこい小型犬で、なんとなく所帯じみた顔つきをしていたので、いつのまにかみなが「おばさん」と呼んでいた。
 餌をやり、どこかへ行ってくれるのを待ったが、まるで前から家にいた犬のような感じで、どこへも行ってくれない。飼ってやりたいが、うちではもう飼えないのはわかっていた。散歩も二匹で手いっぱいだった。翌日だったか数日後だったか、父がバイクか車でどこかに捨てに行った。
 ところが、数週間して「おばさん」は帰ってきた。誰も知らない苦難のはてにようやくたどりついて、どんなにうれしかったことだろう。ちぎれるように尻尾をふって、わが家の庭にいた。たぶんたくさん餌をやったはずだ。抱きしめてもやったはずだ。家じゅうで感動していた。しかし、そのくせ、また父が捨てにいったのだ。前よりももっと遠くに。
 私がどのくらい抵抗したのかも覚えていないが、殺し文句は、今いる二匹に悪いということだったようだ。そしておばさんは二度と帰らず、犬を捨てるのに成功した私は、思い出す度に身体が熱くなるような、一生捨てることのできない後悔に今も苛まれている。
 
9月1日(土)【『もたない男』】
 葛飾北斎は90年の生涯で90回以上引っ越しをしたという。平均すると年に1回の勘定になるが、1日に3回引っ越したこともあったらしい。住む場所に縛られるのがいやだったのだろう。『もたない男』の中で中崎たつやもそんなことをいっている。気に入らなかったり、飽きたりしたら、すぐ引っ越す。2年に1度の目標をもっていた時期もあるそうだ。
 もちろん、居住・移転の自由を享受し謳歌するには、なによりもまず荷物を少なくしておかねばならない。中崎氏の「もたない」暮らし方は漫画でも度々紹介されているが、この本で読むともう痛快というしかない。長いとこ商売道具にしていたパソコンや、そこに貯め込んだ資料やデータはもとより、本も原稿も母親からの手紙もみんな捨てている。
 そういえば残雪の「埋葬」も捨てまくる話だった。湯呑みや万年筆や腕時計といった見える物はもちろん、人づきあいだの整理整頓だの身だしなみだのといった人並みの習慣もみな捨ててしまう。
 自分がこれまでもっていた有形無形のいらないものを一切を捨てることで、これまでの自分自身を埋葬し、リセットすれば、そのがらんとした空間からまた何か新しいことを始め、新しいことに出会うことができる。たしかにそんな気がする。このもちすぎた時代も、国も、人も。
 ほんとうにいらないものだらけだが、そうはいっても、捨てることのなんと難しいことか。いらないものの洪水の中で、いるものが日々埋葬されつつある。

8月30日(木)【地震の夢】
 一昨日と昨日、二日続けて地震の夢を見た。
 一昨日のは大阪の梅田らしき駅を出た場所だ。すでに地震は起きて原発も爆発しており、空も空気も黄色だった。すぐ前には四方がガラスの部屋があって、そこに大勢の人が(避難して?)いたが、中からも黄色い煙が出ていた。私はこの大変なときに一万円しか持っていないことに気づき、だれかといっしょに現金自動支払機のところへ行っておろそうとしたが、長蛇の列で下ろせなかった。
 昨日の夢はもっと単純だ。どこかのマンションの散らかった部屋にいたら地震になり、壁によりかかったまま、後ろに何度も揺さぶられた。ひどい地震だと思ったのに、(たぶんテレビの速報だと)震度は5とのこと、腑に落ちなかった。
 そして今朝4時過ぎ、宮城で震度5強の地震。続いて茨城でも震度3があった。
 なんだか気になって、早速検索をしてみたら、いるいる! けっこう大勢の人が昨日地震の夢を見ていた。ツイッターはこんなことも調べられて面白い。もっとも、これまで検索したことはなかったから、他のなんでもない日でも、大勢の人の地震の夢ツイートがあるのかもしれない。
 夢は毎日見ているはずなのに、鮮明に覚えていることは多くはない。覚えているときは、面白いのでなるべくメモするようにしている。そのメモも検索してみたら、ずっと地震を心配してきたわりに、夢に見たのは3.11以後、今回が初めてだった。
 もちろん、だからどうだといえるわけではない。夢のことはわからないし、地震のこともわからない。

 【8/31金曜!規制委員会人事案可決阻止の為、民主党本部への抗議あり!】原子力規制委員会人事を撤回せよ!大飯原発を直ちに停止し再稼働を中止せよ!8/31(金)18~20時首相官邸周辺にて超大規模抗議!「ツイート」ボタンで拡散にご協力を!→ http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1097
(新設エリア:国会図書館前を民主党本部に向けての人事案反対の抗議エリアとします)

8月28日(火)【安全保障】
 いつまた大地震で爆発するかわからない原発を残すのが、この国の「安全保障」のためだという理屈がどうして成り立つのか、やはりどう考えてもわからない。かりに、ツイッターでつぶやかれているように、推進派が原発を残したがるのが将来の核武装のためだとしたら、これほど馬鹿げた「武装」はない。
 この「武装」方式はいわば身体じゅうに爆弾を巻きつけているようなもので、投げるぞ投げるぞと他国を脅しているうちに、ついに導火線の時間が尽きて自爆してしまうという笑いごとではすまない笑い話に終わる公算が大きい。
 日本は世界屈指の地震国で、しかもその地震の活動期に入っている。
 「世界の震源分布とプレート」 http://j-jis.com/data/plate.shtml JIS(下にスクロール。日本列島は真っ赤でろくに見えない)
 それともそれを承知で、日本中の人を居ながらにして爆弾三勇士にし、特攻隊員にしようというのか。
 いったい、なんのために? これでいったい、何の安全が保障されるのか? 

・原発ゼロ、簡単に言えぬ=野田首相「安保絡む」:「原発依存度を将来ゼロにすべきだとの意見が出たのに対し、首相は『安全保障の問題が絡むので、簡単に原発ゼロとは言えない』と否定的な見解を示した。」http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2012082801040
・RT もんじゅ君@monjukunさんのツイート: いみふめいですだよ。「原発、断層ずれても運転可能に 保安院が新基準導入へ」活断層の上に原発があるのはさすがにヤバイといってきたけど、調べるとけっこうありそうなのでOKにしました、ということみたい。福島では直下型でなくてさえああなったけど。 http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012082801002324.html

8月27日(月)【傾向】
 原発パブコメ8万件超の分析結果が発表された。予想どおり 、始めに公表された1万件とほぼ同じ「原発ゼロ」が9割近くを占めた。おそらくそのほとんどが即時ゼロだろう。政府が期待した15%シナリオの支持はわずか1%だ。それはそうだろう。「ほどほどの安全」などというものが、こと原発に関してはあり得ないことは、すでにだれもが思い知らされている。
 要するに、政府が広く国民の意見を聞いた結果、各地の意見聴取会でも、討論型世論調査でも、意見公募でもゼロパーセントが大多数を占めたということだ。
 ところがここに来て野田首相と、分析を依頼された「専門家」(いったいどういう人たちなのか、名前も公表されない)とやらが、また不可解なことをいいだした。この意見聴取の結果は「積極的に関心を持つ人の傾向」にすぎない、要するに国民の一部の人の傾向にすぎないから取るに足りないといいたいらしい。
 これはもう語るに落ちたというしかない。いったい、なんのための意見聴取だったのか? 積極的に関心をもつ人よりも、もたない人の「傾向」を当てにし、口を開き、行動する人よりも、黙っている人のその「沈黙」を当てにしようというのだ。
 たしかに、これまで原発は、そういう国民的な沈黙に支えられて稼働し続けてきた。しかし事故のあと、多くの人々は、まさにそのことに改めて気づいたのだ。沈黙が同意にほかならないということに。
 全国津々浦々のデモや集会、あるいはこの度のパブコメ8万件が示しているもうひとつの重大な「傾向」に、首相はまだ気づいていない。彼らが「積極的に関心を持つ人」の意見をないがしろにすればするほど、彼らの当てにしてやまない沈黙が破られて、語り、行動する人がますます増えていくという「傾向」に。
 ・原発「ゼロ」7万6800件 意見公募 集計結果
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012082790135709.html (東京新聞)
・住民投票実施に賛成=浜岡原発再稼働で-川勝静岡知事
 http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2012082700507 (時事通信)

8月25日(土)【血】
 ネット上で、石原慎太郎氏が尖閣諸島がらみで、「大事なことは、例えば一滴でも二滴でも血を流してでも私たちが守るんだという意思表示をすることですよ」と発言した記事を見かけ、またどっと賛同者が出るのではないかと心配になって、ツイッターで検索してみた。
 すると、ほっとしたことに、少なくとも今日見たかぎりでは、「よく言った」的な賛同よりも、「どうせ流すのは他人の血だろう」といった批判のほうがはるかに多いことがわかった。
 若い人たちの中には過去の日中戦争や太平洋戦争を肯定しようとする人がけっこう目立つが、それは必ずしも自分たちが巻き込まれるかもしれない戦争、あるいは戦争そのものの肯定にはつながらないということだろうか。それとも単に、もとより戦争に否定的だった人たちが危機感に駆られてすぐさま反応したということだろうか。
 いずれにしても、首相官邸前の抗議集会にも見られるように、若い人たちの「血を流すこと」や暴力への拒否感、嫌悪感は、われわれやそれ以前の世代よりもはるかに強いように見える。 だとすれば、人々は以前よりずっと賢くなっているわけで、それは大きな希望だ。
 守るべき「大事な」ものとは、なによりもまず「血」であり、生命であるのだから。それが自分の血であろうと、他人の血であろうと。

 「大事なことは、血を流してでも守るんだという意思表示をすること」
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120825/lcl12082501350002-n1.htm (msn)

8月24日(金)【領土】
  1978 年,日本の政治団体によって尖閣諸島の魚釣島に灯台の設置とともに放された山羊は増えに増えて、島の植物を食べつくしながら、今や減少に転じているという。下の今年5月の記事には「楽園」とあるが、宮島の鹿や、かつての初島の猫、そして福島の牛豚鶏と同様、人間の身勝手で作り出された「地獄」がほの見えている。その山羊のせいで絶滅が危惧される動植物も数知れないらしい。
 その政治団体にとっても、この惨状を放置してきた歴代政府にとっても、領土を守るとは、文字通りの、ただの土を守ることであって、その上にいる生き物の命を守ることではなかったようだ。そしておそらくこれからも。
 
 尖閣諸島はヤギの楽園 元は2匹だったが現在数千頭に繁殖
 「現在の尖閣諸島――琉球大の報告がある。昭和53年、魚釣島に持ち込まれたオスとメス2頭のヤギが推定、数千頭に繁殖し、森林は破壊され、むき出しの土が崩れ落ち、糞尿で水質汚染が起き、海岸ぎわまでヤギの異臭がある、と。」
 http://www.news-postseven.com/archives/20120518_108311.html (Newsポストセブン)

・尖閣諸島魚釣島の生物相と野生化ヤギ問題
 http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/42/16Yokohata.pdf(富山大学理学部生物圏環境科学科準教授 横畑泰志ほか)

8月23日(木)【「足りない詐欺」と「安全デマ」】
 これまで原子力ムラの人々がこぞって唱えていた電力が「足りない、足りない」という主張は、この猛暑に、こっそり大飯再稼働分、火力発電所を止めながらも、結局は足りたことで、ツイッターの傑作新語どおり「足りない詐欺」(誰が言い出したのだろう、うまい!)であったことが判明した。しかし、原子力ムラの人々はいくらバレてもカエルのつらに小便で、厚顔に、あるいは機械的に、同じ手口をくり返す。「足りない詐欺」のもうけは「振り込め詐欺」どころではないし、また「振り込め詐欺」以上に、面白いように引っかかる人がいて、やめられないのだろう。昨年から使われすぎて、もう新語でもなんでもなくなった「安全デマ」についても同じだ。「原子力規制委員会」は原子力とともに原子力ムラをも規制する力をもたないかぎり、また飽きもせずに「安全だ」とくり返す「安全デマ」の再生産装置になるばかりだ。へたをすると、そのあげく私たちが振り込ませられるのは金だけではなく命なのだ。

・「民主、規制委人事賛成へ」: 原子力村の一員が原発を規制できるのか?
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012082302000237.html

 【8/24金曜!緊急大拡散!】原子力規制委員会人事を撤回せよ!大飯原発をただちに停止し再稼働を中止せよ!8/24(金)18~20時首相官邸周辺にて、首都圏反原発連合呼びかけによる超大規模抗議!ツイートボタンで情報拡散にご協力下さい!→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1066

・24日反原発抗議★17~19時半文科省前(福島疎開裁判) 18~20時官邸前・国会前(首都圏反原発連合 18時半~21時経産省本館前(火炎瓶テツ氏、296デモ有志 18時半~20時経産省別館前、20~21時15分環境省包囲(フクロウの会他 20~22時東京電力前(東電前アクション)

8月22日(水)【直感も、熟慮の結果も】
 新たなエネルギー政策の策定に向け、政府が「国民の意見を直接聞く」ために実施した調査は3種類あるが、いずれも脱原発を求める人が多数を占めた。
 ①各地での意見聴取会→7割以上が0%を支持、福島では9割にのぼった
 ②パブリック・コメント→届いた9万件のうち、7千件の集計結果では8割が即時0%、段階的0%を含めると9割近くが0%を支持。
 ③討論型世論調査(DP)→政府が15%に誘導すべく、いちばん当てにしていたらしいが、その思惑とは逆に、討論を経て、かえって0%支持が増え、半数近くを占めた。

・原発ゼロ32→46% 政府討論型世論調査
 「結果について、DPの実行委員会(委員長・曽根泰教慶応大大学院教授)は「政府や電力会社、専門家が発する情報への信頼は大きく失われている」と指摘。「国民の熟慮が進むほど、国民は自ら発想を転換し、原発から(再生可能エネルギーなど)グリーンへ向かう政策転換を引き受ける用意があることを示唆している」と分析した。
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012082290135908.html

・首相と反原発団体が面会 話し合い平行線
 http://www.asahi.com/politics/update/0822/TKY201208220622.html

8月19日(日)【獣と人間】
 
 「なぜか今日、わたしは何も手がつかない。なんだかこんがらかって、わけがわからないのだ。部屋の隅から美しい賢そうな目でこっちを見ているのは、赤毛の牡犬、ヤーリクだ。こっちがそういつまでもじっとしていられないことを、よく知っているのである。その視線に耐えられなくて、わたしは彼と、獣と人間について哲学談義をはじめる。 獣は何でもわかっているが、口が利けない。一方、人間は口こそ利けるが、何もわかっているわけではないのだ――。」(プリーシヴィン 太田正一訳)

 まったくそのとおりだ。獣は一匹でも、群れを成していても、何でもわかっている。ところが人間は一人でも、群れを成していても、今これからどうすればいいのかさえ、まるでわかっていない。

 そして、「地上最後の獣とともに、この世から一切の秘密が消滅してしまう」のだろうか。

8月17日(金)【原発パブコメ一部公開】
 政府の国家戦略室より、12日に締め切られた原発パブコメ8万9千件の一部、約1万件分が公表されました。ご覧ください。予想どおり大多数が0パーセント支持、それも再稼働不可、即時廃炉要求が多数を占めています。  http://www.npu.go.jp/policy/policy09/archive11.html

8月16日(木)【8・17脱原発集会・デモ】
 明日は恒例の官邸前のほか、全国北から南まで、35箇所以上で集会、デモが行われるようです。 暑いですので、参加される方は水分補給をお忘れなく。

○【8/17金曜!緊急大拡散!】原子力規制委員会人事を撤回せよ!大飯原発をただちに停止し再稼働を中止せよ!8/17(金)18~20時首相官邸周辺にて、首都圏反原発連合呼びかけによる超大規模抗議!ツイートボタンで情報拡散にご協力下さい!→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1063
○RT阪上 武@gami_takeさんのツイート: 【拡散希望】大問題の規制委人事案:お盆明けが勝負★原子力ムラ人事にNO!①8/17(金)18時半~経産省別館前行動 ②8/17(金)20時半~環境省ヒューマンチェーン ③8/20(月)18時~官邸前行動 http://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/817-384d.html … ツイートボタンから拡散を!
○RT脱原発系デモ情報拡散@demo_jhksさんのツイート:
 【ブログ再更新】脱原発系デモ情報一覧 demojhks.seesaa.net/article/286936

8月15日(水)【鉄の時代】
 黄金時代、銀の時代、銅の時代に続いた「鉄の時代」は、オウィディウスによれば「忌わしい所有欲がやってきた」時代である。「変身物語」にはこう記されている。

 「豊かな大地は、穀物や、当然与えるべき食物を求められただけでなく、地中の深い内奥にまで、人間の手がのびた。大地が隠し持っていて、下界の暗がりにしまいこんでいた富までが、掘り出されたのだ。そして、その富が、諸悪を誘い出す源となった。今や、有毒な鉄と、鉄よりも有害な金が出現していた。この両方を手立てとする戦争も発生し、血まみれの手が、鳴りひびく武器を振りまわした。略奪が生活の手段となり、主人は客の、婿は舅の安全を守らず、兄弟愛もまれなものでしかなかった。……(中村善也訳)」

 こうして読みなおすと、いちいちはっとするようなことばかりで、なんだか予言書を読んでいるような気がするが、なんのことはない、当時からずっとこうだったのだ。ギリシアに鉄器が普及したのは紀元前10世紀以前、古代ローマでオウィディウスがこれを書いたときにはもう千年がたっていた。さらに二千年を経て、私たちは今なお「鉄の時代」にいる。それもそのっぴきならない末期に。
 略奪を生活の手段とし、互いの安全を守ろうとしない時代がこのまま続くならば、「鉄の時代」の終わりはそのまま人類の終わりになるしかない。「忌わしい所有欲」が原発と核兵器を得たとき、いったい何が起きるのか、人類が、続く新たな時代を開けるにせよ、開けずにこれで「一巻の終わり」になるにせよ、私たちは「鉄の時代」の最後の1ページを書きつつあるのだろう。

8月14日(火)【観客への復讐2】
 ダンテの地獄の門をくぐると、その人々は三途の川を渡る手前の中途半端な場所にいて、その「溜息や泣き声や声高の叫びが、星もない空中に鳴り響いて(平川祐弘訳)」いる。
 いったい彼らは何者なのか、何を嘆いているのか?
 ウェルギリウスは答える。
 「このみじめなさまは、誉れもなくそしりもなく生涯を送った連中の、哀れな亡霊のすがただ。神に仕えるでもなく、そむくでもなく、ただ自分たちのためにだけ存在した、邪悪な天使の群れとまじりあっている」
 「私」はそれをいいなおす。「まちがいなくこれこそ神ののお気に召さず、また神の敵の気にもいらぬ卑劣な連中にちがいない。この本当に人生を生きたことのない馬鹿者どもは、まる裸でそこいらにいる蜂や虻にさしまくられていた」
 結局のところ、ダンテがもっとも気に入らなかったのは、死者の世界でも長い長い列を成すこの「本当に生きたことのない馬鹿者たち」、つまりは観客たちだった。善いこともせず、悪いことさえせず、正しいことも、間違ったことさえせず、要するにこれといったことを何もせずに無為無難に人生を過ごした者たちを彼は唾棄しており、まだ悪党のほうを高く買っていた。
 天が汚れるからと天国にも受け容れず、かといって地獄の深い層にも送ろうとしない。「こんな奴らを入れれば悪党がかえって威張りだすからだ」と。
 同じ十三世紀、日本では兼好法師がこう説いていたのだった。
 「しやせまし、せずやあらましと思う事は、おほやうは、せぬはよきなり」
 ダンテは何もしなかった後悔を恐れ、兼好は何かした後悔を恐れた。
 生きないことへの恐れと、生きることへの恐れ。

8月13日(月)【原発パブコメ8万件集まる】
 
 昨日の東京新聞には5万件とありましたから、たった1日2日で3万件も増えたことになります。ツイッター拡散の威力もおおいにあったにちがいありません。そしておそらく意見の大半はゼロシナリオでしょう

 「原発比率の専門家会議設置 月内取りまとめ微妙に」
 http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220813017.html (テレビ朝日)

8月11日(土)【再掲:原発パブコメ締切12日18時
 8月5日にも書いた原発パブリック・コメント明日18時締切です。推進派から大量の推進シナリオ支持が集まることが予想され、出さずにいると後悔しそうなので、私も今日「ゼロシナリオを支持します」として、下の枠に再稼働不可、即時廃炉の意見を書いて出しました。
 ネット送信以外はもう間に合いませんが、5分で書けます。

RT:DAIGO@_daigo_1202さんのツイート: 【拡散!明日締切!】原発のない未来をつくために!パブコメで未来を変えよう 8/12締切 政府が、今後の原発のあり方について国民の意見を求めています。「原発ゼロシナリオ」を選択して意見を出しましょう!お友達にも転送をhttp://ow.ly/c3fZ2

8月9日(木)【観客への復讐】

 魯迅の作品集『野草』に入っている「復讐」は、観客を憎んでやまない魯迅の、観客についての寓話である。簡単にいえばこんな話だ。
 広漠たる曠野にふたりの人間が素っ裸で、手に剣を握って向かい合っている。
 もちろん通行人はなにが起きるのかを見ようと続々と集まり、ふたりのまわりにびっしりと群がる。
 ふたりはこれから抱き合うか、あるいは殺し合うだろう。
 行儀よく服を着た見物人たちはわくわくしながら待っている。
 ふたりから汗がほとばしり、血がほとばしる生々しい場面を、生きている人間の物語を。
 しかし、待っても待っても、何も起きない。
 ふたりは抱擁も殺しあいもせず、ただそこでいつまでも向かい合ったままだ。
 人々はしだいに退屈し、当てがはずれ、互いに顔を見合わせてあきらめて去っていく。

 この広漠たる世界にせっかく生を受け、他の人間と出会いながら、役柄や虚飾を脱ぎ捨てて素っ裸で愛することもせず、憎むこともせず、つまりは生きようとせず、他人が傷つきながら生きるのを気楽に見物して、死のように空虚な自分の人生を埋め合わせようとする永遠の観客、傍観者。
 魯迅は、彼自身の中にも住んでいた観客を含め、すべての観客への復讐を終生執拗に続けた作家だった。愛し、だから憎み、それによって生きた。これほどわかりやすい作家はいないかもしれない。こっちが観客席から出ていって、素っ裸になって彼と、あるいはだれかと向き合うならば。

【8/10金曜!緊急大拡散!】原子力規制委員会人事を撤回せよ!大飯原発をただちに停止し再稼働を中止せよ!8/10(金)18~20時首相官邸周辺にて、首都圏反原発連合呼びかけによる超大規模抗議!ツイートボタンで情報拡散にご協力下さい!→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=956

8月8日(水)【観客2】
 いつの間にかときどきテレビでオリンピック番組を見るようになっている。今日の女子レスリングなど、くり返し見てしまった。、格闘技はルールをろくに知らなくてもなんとなくわかるし、他の競技よりも一層簡単に自分が戦っているような気分にさせてくれる。伊調や小原やほかの外国の勇者たちの輝く身体とは比べようもないのだが、少なくとも私の貧弱そのものの身体でも、身体は身体であり、しかもその身体がまさに力でもあるのだということを、いとも簡単に思い出させてくれるのだ。
 しかしこうして見ていると、自分がひとつの身体として生まれてながら、なんと無為のまま過ごしてきたのだろうとも思う。子どものころ走るのだけは速かったが、鉄棒の逆上がりはできず、跳び箱は一度も跳べなかった。能力がなかったのではなく、本気で練習せず、あるいは勇気を出さなかったのだ。
 中学ではテニス部に入ろうと見学にいったら、上級生が妙にいばっていて新入生は球拾いなどというのでいやになり、民主的な科学部に入ってしまった。学校の体育の授業と、若い頃、スキーと水泳と登山をほんの少しやったのが、私の貧しいスポーツ歴のすべてだ。
 棒高跳び、跳び込み、レスリング、フェンシング、アーチェリー、射撃、乗馬、やり投げ、フィギュア・スケート、ジャンプ、トランポリン……
 できたら楽しいだろうなあと思うスポーツは挙げ始めればいくらでもあるのに、本当に何もしないで生きてきてしまった……。せめて毎日30分のウォーキング、少し早目に歩いてみよう。

8月6日(月)【観客】
 もう一度改めてふりかえって見れば、少なからぬ怠惰な国民を観客席から無理やり追い立てたのは、政府の大飯再稼働の決定だった。それまでは、たぶん大半の人が、政府が本当に再稼働に乗り出すとは思っていなかったのだ。
 原発事故が起きたときから呆れることばかり続いたものの、菅首相は浜岡を止めたし、稼働中の原発は次々に定期点検で止まり、今年の5月にはついにゼロになった。人々はその状態がそのまま続くだろうとわけもなく楽観していたのだ。
 ところが野田首相は本気で全国の原発を次々に再稼働させるつもりでいるらしく、しかも政府内や党内や国会内からも国外からも、マスコミからも、それに反対する力強い声は聞こえてこない。
 私たちは当てが外れ、堪忍袋の緒が切れた。これまでの1年余り、観客席で忍びがたきを忍んできたのは、いってしまえば、破滅的な危機への鈍感さよりも、この呆れた政府と日本という国のシステムになお懲りずに寄せていた信頼からだったのだろう。
 その信頼がここに来て根底から揺らいだ。これ以上政府まかせにしておけばとんでもないことになると認めざるをえなくなって、観客たちは居心地は悪いが気楽ではあった観客席からしぶしぶ立ちあがった。
 まだ多くはないとはいえ、十万人を越える人々が観客を止めて舞台に移ったことにで、それなりの効果は出始めている。少なくとも反対する国民が大勢いるという当たり前のことが、だれの目にも、いやでも見えるようになり、その声がだれの耳にもいやでも聞こえるようになった。
 これが思いのほか、ひょっとしたら決定的に、重要なことかもしれないという、考えてみれば当たり前のことにも、私たちはようやく気づきはじめている。

・「原発ゼロの課題は?」野田総理が検討指示
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220806068.html

RT ねこねこ@tomoneko488さんのツイート: パブコメで未来を変えようhttp://is.gd/JYTv5y【拡散】8月12日締め切り! 原発はいらないと政府に意見を送ろう! 原発事故後のエネルギー政策見直しが大詰めに! ★「 0% 」だけが原発反対の意見です。 投稿フォーム、FAX、郵送、セブンイレブンのコピー機で

8月5日(日)【パブコメ「御意見募集」】
 政府が、「エネルギー・環境 に関する選択肢 」に対する意見(パブリックコメント)を募集中です。
 原発依存度シナリオを、①ゼロシナリオ② 15 シナリオ、③ 20 ~25 シナリオから選べというもので、
それも2030年時点の話ですので、たとえ「①ゼロシナリオ」となっても再稼働が可能になるように仕組まれていますが、原子力村関係者から大量の応募があるであろうことも目に見えています。
 私もどうしたものかと考え中ですが、以下をご参考に。締切8月12日

RTアッサム山中:アニマルライツ・脱原発新潟@assam_yamanakaさんのツイート :仲間を誘って「パブコメを書く会」を開いてみよう。パブコメは「何々案に何通」と数で評価されていく。一人でも多く提出を!onestep21.blog60.fc2blog.net/blog-entry-73.

・「原発ゼロ」が圧倒的 討論型世論調査chunichi.co.jp/s/article/2012 (中日)

8月2日(木)【本日です】

○ 【今週金曜!緊急大拡散】原子力規制委員会人事を撤回せよ!大飯原発をただちに停止し再稼働を中止せよ!8/3(金)18~20時首相官邸周辺にて、首都圏反原発連合呼びかけによる再稼働反対の超大規模抗議!ツイートボタンで情報拡散にご協力下さい→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=780

○ 8/3(金)【東京】『原子力規制委員会人事撤回を求める抗議集会・ヒューマンチェーン』(環境省前)20時15分~21時 bit.ly/QioxvZ

○★8/3(金)【東京】『経産省本館前 対話(抗議)集会』17時~21時 bit.ly/Mbs4Hl

iwakamiyasumi5 120802 首相官邸前抗議行動の過剰警備に抗議する弁護士100名の声明に関する記者会見http://www.ustream.tv/channel/iwakamiyasumi5

8月1日(水)【一本の草】
 物事についての自分の感じ方や考え方がどこから来たのか、その出所がはっきりわかっていることがある。たとえば私はコンクリートのひび割れに生えている草を見ると、なんだか痛ましい感じがして、おい、がんばれという気分になるのだが、その理由はわかっている。子どものころ、姉か私が買ってもらった『放送童話(二年生用)』という本にあった「一本の草」という話のせいだ。
 村の学校から町の学校に転校した子が、休み時間の後いなくなったので、先生が探しにいったら、コンクリートの校庭のひび割れに生えた草をなでながら、故郷の草原を思い出していたという話だ。
 読んでいた当時は、それほど面白いとも思わなかったし、好きでもなかった。今読んでも、作者の意図があまりにも露骨すぎて、べつにいい作品だとも思わない。
 ところが、考えてみると今の私は、まさにその作者の意図にまんまとはまって、コンクリートのひび割れに生えた草さえ見れば、条件反射的にがんばれと思う人間に育ってしまっている。
 子どものころ、家にそれほど多くの本はなかったので、とにかくある本をくり返し読むしかなかった。好きな本はそれこそ何十回も、ひょっとしたら百回以上、暗誦するほど読んでいるが、この『放送童話』はお気に入りではなかったので、せいぜい数回だろう。それでもこのありさまだ。
 大好きだった『王子と乞食』や『ロビンソン・クルーソー』、『小公女』などが、私の中にいったいどれほどすりこまれ、どんな条件反射や、感じ方考え方の方程式を形作っているかと思うと恐ろしいほどだ。
 その後数十年にわたって読んできたさまざまな本もあるし、一字一句翻訳した本さえある。そうしたすべての本たちは今、私の中でいったい何になっているのだろう。 

7月31日(火)【オリンピック】
 気がついたらオリンピックが始まっていた。特別番組はほとんど見ず、ニュース番組や新聞だけで済ませているが、それでも驚くことがふたつあった。
・ ひとつは柔道で金メダルを取った松本薫選手の試合前の表情だ。見たとたんにライオンを連想した。実際、彼女には「野獣」の異名があるらしいが、本当にそういう感じだ。精悍で獰猛でハングリーな野性の生命そのものといった表情。彼女が出てきただけで、試合の場には草原のにおいがたちこめるのにちがいない。この日本に、死んだようにおとなしい良い子顔でいっぱいの若い人たちの中に、こんな顔のできる人がいたということに、正直、心底驚き、あの顔に心底魅了された。
・ もうひとつは男子サッカーの対モロッコ戦だ。報道によれば、D組で日本チームが対戦したモロッコ・チームはイスラム教徒の選手が多く、オリンピックがたまたま日の出から日没まで飲食を断つラマダンに重なったため、水も飲まずに試合に出ていたようだ。監督はラマダンを負けた言い訳にはできないといっていたそうだが、あの激しい運動量を考えれば、水を飲むチームが飲まないチームよりはるかに有利なのは明らかだ。
 要するに、モロッコの多くの選手にとっては、オリンピックで勝って国威発揚するよりも、信仰の要請に従って断食するほうがずっと重要だったのだろう。詳しくは知らないが、ラマダンの断食は、飢えや、渇きを身をもって経験し、それに苦しむ人々を思いやるためのものであるらしい。
 水を飲めない人々の苦しみを思いやってあえて水を飲まない選手たちと戦った日本の選手たちも、思いは複雑だろう。いったいどっちが、何に勝ったのかと……
 日本も、世界も、思っているより広いのかもしれない。

7月30日(月)【常識】
 3・11後ドイツのメルケル首相は、原発をもち続けるか否かを倫理委員会に諮問し、経済的な事情よりも、倫理的な判断を優先して脱原発を最終決断した。そこに見られる哲学者への深い信頼は、その哲学者が代表する「常識」への信頼でもある。
 カントは「純粋理性批判」の中にこう記している。

 ところでいったい諸君は、およそ一切の人間に関係するような知識が、常識以上のものであったり、また哲学者によってのみ諸君のために発見されることを欲するのだろうか。……また最高の哲学といえども、人性の本質的目的(道徳)に関しては、自然が常識にも与えたところの手引き以上のことを成就し得るものでない、ということである。(篠田英雄訳)

 本来、原発事故の当事国たる日本の首相こそ、まっさきに倫理委員会に諮問しなければならなかったのだが……。今、なによりも耐えがたいのは、私たちがこれほど非常識で不道徳な政府をもってしまっているということだ。

7月28日(土) 【充分すぎる理由ー友へ】
 
 危ない! 
 
 行動するために、すべての原発を廃炉にするために、これ以上なんの理由が必要だろうか? 
 危ないことはすでに私たちの目の前で無惨に証明されている。これ以上証明はいらない。
 
7月27日(金)【デモ情報】

・【拡散希望/7.29脱原発国会大包囲】7/29(日)日比谷公園中幸門15時半集会、16時デモ出発、19時国会包囲!(主催:首都圏反原発連合)官邸前抗議の拡大版!全国からのご参加を!リンク先の「ツイート」ボタンで情報拡散にご協力下さい!→国連絡会 他http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=648

・脱原発デモ情報一覧
 http://demojhks.seesaa.net/article/283377898.html

7月26日(木) 【考える理性】
 今日のNHKクローズアップ現代「デモは社会を変えるか ~声をあげはじめた市民たち~」は好感のもてる番組だった。先日のニュースウォッチ9のように問題を拡散しすりかえることなく、あくまでも原発の問題にしぼって誠実に市民の声を紹介し、政府まかせにしてはおけないことに気づいた市民のひとりひとりが「考える」ことを始めているという自然な流れになっていた。
 例によってツイッターの反響を見ると、1年以上前からやっていたデモを、これまでろくに取り上げなかったNHKが今さら知った風なことを言うなとか、生存権の問題を正面から取り上げていないといった批判はあるものの、「合格点」とする評が多かったように見える。
 いちばん必要なのは、NHK自体がこれまでどのように原発報道をしてきたかの真摯な反省と勇気ある方向転換であろうが、まだ到底そこまで行けそうもないのは、日本の世論形成の要となっているNHKニュースやニュースウォッチ9の現状を見ればわかる。NHKの内部でも組織防衛や個人の保身のための利害打算と、「考える」理性が相争っているのだろう。
 「デモが社会を変えるか」という問題は、こういう番組を作る人々がそのデモの援護によって、「NHKを変えるか」という問題でもある。

7月25日(水)【愚者の楽園】
 ずいぶん若かったころ、イギリス人の英語の先生が“fool's paradise”の意味をいっしょうけんめい黒板に描いて説明してくれた。大きな岩が崖の上から今にも落ちてこようとしているのに、崖の下では、人々がパーティーを開き、飲んだり食べたり、歌ったり踊ったりしている……。どこかに出典でもあるのかと調べてみたが、見つからない。もしかしたら、名前も忘れてしまったその若い長髪の先生個人のイメージだったのかもしれない。
 彼がもし今も老いてなお日本で英語を教え、“fool's paradise”を教えているとしたら、やはりあの絵を描いているだろうか? それとも原発マークをひとつ描いて、“now, here”で済ませているだろうか。
 あるいは、とうにイギリスに帰ってテレビや新聞で日本の状況を見て、数十年前の教え子に、あの黒板の絵を描いて見せたことを思い出しているだろうか。そしてあのときすでに、教え子も、彼自身も、彼が黒板に描いた大岩の下でパーティーをしていたことに思いいたっているだろうか?
 
7月23日(月)【電気】
 昨年から小出裕章氏をはじめ多くの人が主張していたとおり、原発を稼働させなくても電気が足りていたことが、次々に証明されている。昨年の東電の「計画停電」も関電の節電キャンペーンもみな茶番だった。原発稼働が「必要」なのが、電力のためでなく、電力会社が倒産しないためだということは、すでに多くの人に知れ渡っている。そのことを知りながら、まだ知らずにいるさらに多くの人たちを引き続きいいくるめようとする姑息な報道には、まったくうんざりする。
 大飯再稼働も供給量増えず 関電は火力発電止めて調整してた
 http://getnews.jp/archives/235131

 しかし、かりに、本当に電気がが足りないとしたら、いくらでも節電するつもりはある。もとよりそれほど電気を使いたいと思ってはいないし、電気を使って作った品物をそれほど欲しいと思ってもいない。イソップの「田舎の鼠と町の鼠」でいうなら、びくびくしながら贅沢をする町の鼠よりも、ゆったりと質素なものを食べる田舎の鼠のほうがいいにきまっている。もちろん、餓死するほど質素では困るが……・
 おそらくたいていの人がそうだろう。ところが、この世界では、電気にかぎらず、ほどほどというのがいちばん難しいようだ。うろ覚えだが、どこかのジョーク集にこんな話があった。
 神様がある男になにかの褒美に何でもほしいものをやろうといったところ、男は「何もいりません、貧しくても心静かな平和な暮らしをつづけられれば、それでいいのです」と答える。すると神様は「なんと贅沢な望みだ、私だってできるものならそういう風に暮らしたい」。
 あってもなくてもどちらでもいいようなものを、日々山のように生産し、死に物狂いで広告し、売りまくり、買いまくらなくては成り立たない異様な経済から脱して、神もうらやむまっとうな、静かな清貧の生活にたどりつくには、とてつもない英知と勇気が必要なのだろう。

7月21日(日)【檻】
 
 檻からどうしても出られない、などということは、誰にもないはずなのだ。社畜も、社外畜も、原子力ムラの囚人も、その外の囚人も。 カフカがくり返し、執拗に、生涯書き続けたとおりだ。
 
 「囚人はもともと自由だった。なににでも参加できたし、外の出来事で彼の見逃すものはなかった。檻から立ち去ることだってできただろう、格子の鉄棒は1メートル間隔で立っていたんだから。囚われてさえ、彼はいなかったのだ。」(吉田仙太郎訳)

 まして、その檻の中にはいつ爆発するかわからない爆発物が置いてあるのだし。
 
7月20日(土) 【NHK】
 今夜のNHKスペシャル「メルトダウン連鎖の真相」は、見ごたえのある番組だった。圧力を逃がすSR弁がいざというときに開かない構造的な欠陥、配管が地震でやられてベントができなかったこと、バッテリーを始めとする非常用の物資がろくにとどかず、放射能汚染現場への補給体制もなかったことがはっきりと指摘され、当時現場で絶望的に進行する事態の前で、事故対応に当たった人々が味わった骨身に沁みる恐怖も充分に伝わってきた。
 番組は「何があったのか具体的な検証はまだ出来ていない」「しかし原発は運転を再開した」と結ばれている。
 ツイッターでは、なぜこういう番組を大飯の再稼働前に放映しなかったのかという疑問も多数出ている。たしかにそのとおりだが、少なくともNHKにジャーナリストとしての務めを果たそうとする人々がいないわけではないということはよくわかる。あとは、狂気の沙汰としか思えない再稼働が、なぜ、どうして強行されてしまうのか、その理由と、原子力村、ひいてはこの国の仕組みにどれだけ深く切り込めるかだ。
 一方で昨日のニュースウォッチ9には失望した。首相官邸前の抗議行動を比較的時間を取って報道したのはともかく、人々がこの社会のあり方や政府の政策全般への不満から集まっているかのような大越キャスターのまとめ方はいただけない。それは、あれだけの数の人々が、原発の「再稼働反対」のためのみに集まっているという肝心な点をぼかし、生命と身の安全にかかわる非常事態の問題を、日常の暮らしの問題に拡散解消しようとしているように見える。
 
7月19日(木)【明日の抗議と7・29脱原発国会大包囲】
 
 ツイッターを見ていると、昨年来の東京新聞の人気は相変わらずだが、原子力村への対決姿勢を鮮明にした古館さんの報道ステーションの人気もとみに高まっている。この新聞とテレビ報道がなければ、官邸前抗議者の数はここまでは増えなかったかもしれない。
 一方で、しだいに増えていく抗議者たちの数に合わせて、他の報道機関の論調も少しずつ変わっている。 私は見なかったが、今夜のニュース・ウォッチ9で、あの大越キャスターが「「毎週金曜日、首相官邸前に大勢の人が集まっている。しかも自発的に集まって抗議をしている。政府はしっかりそういう国民の声を聞いて欲しいですね」といったとかで、話題になっていた。6月に官邸前抗議をきちんと報道せず、NHKにツイッター発の抗議が殺到したせいもあるかもしれない。放っておけば、解約や受信料支払拒否の動きが加速しかねない。
  なにやら、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに近づくにつれて、悪魔だか逆賊だかから徐々に昇格して最後は「歓呼の声で迎えられる皇帝陛下」になった例の新聞報道を思わせるが、今後を注視したい。もとよりマスコミ報道の送り手と受け手は相互に依存しあってもいる。一般市民が今、直接行動によってマスコミを批判し、励まし、多少なりとも変え、育てる方法と力をもちつつあるのだろう。
  
 【7/20金曜!緊急大拡散】大飯原発をただちに停止し再稼働を中止せよ!7/20(金)18〜20時首相官邸周辺にて再稼働反対の超大規模抗議!前回を上回る空前の規模で抗議を!また全国各地で同時多発抗議もあり!ツイートボタンで拡散にご協力下さい→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=747

 【拡散希望/7.29脱原発国会大包囲】7/29(日)日比谷公園中幸門15時半集会、16時半デモ出発、19時国会包囲!(主催:首都圏反原発連合)官邸前抗議の拡大版!全国からのご参加を!リンク先の「ツイート」ボタンで情報拡散にご協力下さい!→国連絡会 他http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=648

7月17日(火) 【侮辱】
 昨日の「さようなら原発10万人集会」のもうひとつのキーワードは、大江健三郎氏がくり返しいった「侮辱」だった。

 「私らは侮辱の中に生きている。政府のもくろみを打ち倒さなければならないし、それは確実に打ち倒しうる。原発の恐怖と侮辱の外に出て自由に生きることを皆さんを前にして心から信じる。しっかりやり続けましょう」

 われわれの政府による侮辱、公僕による侮辱、電気屋による侮辱、マスコミによる侮辱……。
 平気で嘘を垂れ流し、重大な真実を語ろうとせず、その嘘と隠蔽にだれも気づいていないはずだといわんばかりに、さらなる嘘と隠蔽を重ねたあげく、人の生命を危険にさらしながら、おためごかしにいいつくろい、平気で税金を取り、電気料を取り、受信料を取り、購読料を取ろうとする侮辱。
 再び大地震が来て4号機が倒壊すれば日本がおしまいになる今、知らずに汚染地域に「避難」させられた方々の被爆状況も、福一のこれまでの作業員の方々のその後もわからない今、メルトスルーした核燃料がどこにあり、いつ地下水汚染が始まるかもわからない今、福島の海開きの様子を嬉々として報じるNHKニュース・ウォッチ9のお茶の間語法による侮辱
 人間の生命への侮辱、理性への侮辱、どうせまたおとなしく騙されて、いや、騙されてさえいなくても、どうせ黙っておとなしく生き、おとなしく死んでいくだろうという、人格への侮辱。
 
7月16日(月)【黙っていることの野蛮】
 アウシュヴィッツ収容所長であったルドルフ・ヘスは、その手記にこう書いている。

 「たしかに、この命令には、何か異常なもの、途方もないものがあった。しかし、命令ということが、この虐殺措置を、私に正しいものと思わせた。当時、私は、それに何ら熟慮の目をむけようとはしなかったーー私は命令を受けた――だから、それを実行しなければならなかったのだ。
 このユダヤ人大虐殺が必要であったか否か、それについて、私はいかなる判断も許されなかった。その限りで、私は盲目であったのだ。」(片岡啓治訳)

 今日の「さようなら原発10万人集会」で、坂本龍一氏は、アドルノの「アウシュヴィッツの後、詩を書くことは野蛮である」を、「福島の後で黙っているのは野蛮である」と言い換えた。たしかに、今、この時期に黙っていることの野蛮は、詩を書くことの野蛮の比ではない。
 日本のみならず世界の人々と子孫の生命を危険にさらすことが明らかになった原発を、廃炉処理を始めるどころか、なおも稼働させ続けようとする政官財およびマスコミ、そしてもちろん電力会社の無数の関係者は、ルドルフ・ヘスとまったく同じ理由で、別な大量殺戮の罪を犯そうとしているのではないか?
 そしてこの「何か異常な、途方もない」国策に対して、なおも黙っているならば、私たち国民にもいつか、自身の生命によって人道に対する罪を償わねばならなくなる日が来てしまうことだろう。
 
 坂本龍一さん「電気のため、なぜ命を」都心で脱原発デモ
 http://www.asahi.com/national/update/0716/TKY201207160202.html(朝日)
  反原発の“訴え”と紛糾する原発比率聴取会
 http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=26510 (報道ステーション)

7月15日(日)【7・16は「さようなら原発10万人集会」へ!】
 
 日時:7月16日(月・休)12:15~
会場:東京・代々木公園B地区全体(サッカー場、イベント広場、ケヤキ並木周辺)
内容:2つのステージを設置し、2台の案内カーを配置して集会を行い、3コースに分かれてパレードを行います。
 
 http://sayonara-nukes.org/2012/06/0716sayonara_nukes/

7月12日(木) 【金曜デモ・抗議集会】
  全国に広がっています。少しずつ、少しずつ動く人が増えて行けば……どうなるかも見届けたい。
・7/13(金)同時刻多地域抗議! 【東京】首相官邸前 【大阪】関電本社前 【名古屋】関電前 【京都】関電前 【佐賀】県庁 【金沢】北陸電力 【福井】関電前 【神戸】関電前 【鹿児島】九電・県庁 【宮崎】九電 【北海道】大通り公園 増加中http://bit.ly/MP8oKE

・【今週金曜!緊急大拡散】大飯原発3号機をただちに停止し再稼働を撤回せよ!7/13(金)18〜20時首相官邸周辺と大阪・関電本店前にて再稼働反対の超大規模抗議!前回を上回る空前の規模で抗議を!このページのツイートボタンで拡散にご協力下さい→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=715

経産省でもあります。
・RT フランクさんとユミさん@franck_and_yumiのツイート:【今日・金曜13日・官邸前抗議の前後でも中抜けでも】「私達の怒り・意見を経産省に届けよう!17時〜21時・経産省本館前」再稼動反対に限らず全体的な政治不満、行政の怠慢さ等テーマは「怒り」です。自由な発言な場にしたいと思います!特に福島の被害者の方、元原発作業員の方など生の声を!

7月11日(水) 【個人の責任】
・国会事故調の報告書に、国外から厳しい批判が出ている。
 いずれも報告書が個人の責任を追及していない点だ。事故調自体が、自ら報告書で原発事故の原因と指摘した「集団主義の文化」にどっぷり浸かっているということか。
  だれも個人の責任を追及されない気楽さの中で、再稼働がまたもや気楽に進められている。

・福島第1原発 「国民性が事故拡大」 英各紙、国会事故調報告に苦言
 タイムズ:「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/120708/cpb1207081114001-n1.htm (産経)

・「日本文化」を原発事故の言い訳にするな-ブルームバーグ社説
「報告書は福島で起きた災害を「深刻な人災」としながらも誰がミスを犯したのかを特定していない。そのかわり、「根っから染みついた日本文化」こそが原因だと非難し、実質的に個人が責められないようにした。結論および提言の中には誰かを告発したり懲罰を加えることは盛り込まれていない。 」
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M6VH6L6JIJUO01.html (ブルームバーグ)

7月9日(月) 【You Lie, We Die 】

 今日のツイッター、話題のメッセージ .You Lie, We Die.
 ここに出てくるのは東電のロゴだが、この'You'が指すのは東電だけではない。

  DIAMOND VERSION - Message for NO NUKES 2012
 http://www.youtube.com/watch?v=5fTWS7WBKgA

7月8日(日) 【ミュージシャン】
   教授(坂本龍一) 「原発なんていやだって、ミュージシャンが言わなくて誰が言うの?」

   NO NUKES 2012 (live at http://ustre.am/M2fX) 

7月7日(土) 【世界一怖いジョーク】
 
 Q: 原発って本当にそんなに危ないの?
 A: もう一度ためしてたしかめてみようね。
 

7月6日(金)【憲法21条】

 今日も雨の中をおびただしい数の人々が集まった。周囲の混み具合は前回以上だったが、地下鉄の駅から交差点まで、警備陣にあまりに細かく分断されて、全体像がまったく見えない。ここまで分断したのは、国内外の報道機関に抗議する大群衆の映像を撮らせないためとの説もあれば、増え続ける抗議者が当局にとってもただごとでない数になりつつあるからだという説もある。
・官邸前「再稼働反対」の波 雨の中、坂本龍一さんも参加
http://www.asahi.com/national/update/0706/TKY201207060626.html (朝日)
・RT 首都圏反原発連合@MCANjp:みなさん、雨のなか本当にお疲れさまでした! 本日の参加者数=累計でだいたい15万人ぐらい。
・RT 首都圏反原発連合@MCANjp@MCANjp 今日の麹町署と機動隊の警備には非常に問題があったと思います。みなさんが官邸前で抗議の声を上げるのは正当な権利です。安全のためのやむをえない措置以外、権利制限が最小限になるよう担当部署に抗議しておきます。

・ツイッターでは、憲法21条の条文もツイートされていた。

 憲法第21条: 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

・そういえば、その昔、ゲーテのファウストはこんな風にツイートしていた。

  自由も生活も、日ごとにこれを闘い取ってこそ、これを享受するに値する人間といえるのだ。 

  
7月5日(木)【それでも抗議は続く】
 再稼働を2日後に控えた前回29日の抗議集会の後、ツイッターでは主催者側への不満が少なからず出た。8時の解散前、前方の人々が首相官邸に押し寄せようとしたのを警察が制止しようとしたが制止しきれず、そこで主催者が「また来週があります。20万人では原発は止まらないんです」と必死に呼びかけて集会を解散させたからだ。
 せっかくの勢いを警察といっしょになって制止するとは何事だという意見に対し、それへの反論はもっと多く、日に日に増えていった。あそこには子どもづれの人も大勢いたし、車椅子の人もいた。混乱になれば危ないし、逮捕者や怪我人が出れば、マスコミはここぞとばかりにそれを書きたて、以後抗議に参加する人は減ってしまっただろうと。
 結局、大飯の再稼働は強行された。
 もしかしたら明日の抗議者は減るかも知れない、しかし、倦むことなく抗議は続き、また増えていくことだろう。

 【明日6日金曜!緊急大拡散!】大飯原発3号機をただちに停止し、再稼働を撤回せよ!7/6(金)18時〜20時に首相官邸前と18時〜19時半に大阪・関電本店前で超大規模抗議!前回を上回る空前の規模で抗議を!このページの「ツイート」ボタンで拡散を→ http://twitnonukes.blogspot.jp/2012/07/763.html

7月4日(水)【恐るべき距離】
  しかし、こうしたすべてを知りながら、私はどうして何事もないかのように平然としていられるのだろう。 内心少し恐れてはいる。だが本当に恐れているのは、破滅そのものではなくて、その低くはない可能性を充分知りながら、それでも平然としているこの私ではないのか。
  要するに、私は恐れない私を恐れている。恐るべき対象との間の不可解な距離を恐れている。私の認識能力は、結局のところ動物たちに遠く及ばないようだ。それが生命を保全し、生きるための能力だとしたら。
 ならば私はこれまでなんのために知り、認識してきたのだろう。あまりにも多くのどうでもいいことを知りすぎたせいで、知ること、認識すること自体がどうでもいいことになり、生きることとほとんど切り離されようとしているのだろうか?
 私だけではない。原発は、人々が総出で引き延ばしてきたその距離の果てに建てられ、今も立ちつづけている。子どもたちは今、福島の学校で、この国の学校で、なんのために勉強しているのだろう。 恐るべき距離を少しでも縮めるために? それともさらに、完全に切れるまで引き延ばすために?
 
・(豪ABC) 4号機燃料プールの危険性について
 http://www.youtube.com/watch?v=_TJo0HLFR_s&feature=youtu.be


7月3日(火) 【『東京に原発を!』
 実をいうと、広瀬隆氏の『東京に原発を!』という本の存在を、私は以前から知っていた。知っていたばかりでなく持ってさえいた。新潟の従姉に「これを読んで」ともらったのだ。もしかしたら新潟に刈羽原発が作られるころだったかもしれないし、もっと前だったかもしれない。
 それを途中まででも読んだのか、ぱらぱらめくっただけだったのか、もう覚えていないが、それ以前から原発がひどく危険な代物らしいということは、なんとなく知っていた。そして、この本の鮮烈な題名から、その代物を人口密集地帯を避けて人の少ない過疎地に押し付けているということも意識するようになっていた。
 もし原発をどう思うかと2、30年前にだれかに聞かれたら、危険だから反対だと即座に答えただろう。 しかし、もちろんだれも私にそんなことを聞いてはくれなかった。だれも聞いてくれないので、私はずっと黙っていた。20年も、30年も……もっとかもしれない。
 故郷の新潟で刈羽原発に反対して坐り込みをする人々が警官にゴボウ抜きにされるのをテレビで見ても、家では「ひどいね」などといいながら、それでも黙っていた。刈羽に駆けつけることなど、思いつきもしなかった。
 要するに、私は知っているのにずっと黙っていたのだ。その間に日本の原発は54基になり、福一はついに爆発し、メルトダウンした。メルトダウンしたのだ! そして私は、明日か、明後日か、来月か、来年か、いつ来てもおかしくない大地震を想定することなく作られた津々浦々の原発に、いつのまにか取り囲まれていた。
 私はたしかにずっと以前から、原発が危険だということを知っていたが、いちばん肝心なことを知らなかったのだ。私の知識が正しければ、いつかそれが実証される日が来るということを。
 3.11の後で、私はようやくその肝心なことを知った。冷やし続けることができなければ日本はもちろん、世界さえ破滅させかねないおびただしい使用済み核燃料があることと同時に、放っておけば、それが実証される日が来てしまうことを。
 しかし、それでも大飯現地の再稼働阻止には駆けつけなかった。自分の知っていることが実証されるのは、明日ではあるまいと、なおもたかをくくっているのだ。地震に備えて本棚から下ろした本の山の中で『東京に原発を!』を、ときどき探しているのだが、これもまだ見つかっていない。

7月2日(月)【時間】
 
 RT 考える人プロジェクトいとうじん 原発廃止@ThinkSmart2011: 悲観的にはなってはいるけど、胎動は感じてる。日本人は変わりつつある。脱皮。ただ、僕らは既に日常的被曝下にある。となれば、なんとしてでも、脱皮の速度を上げたい。僕の今の願い。この機を逃してはいけない。現実に飲み込まれる前に、脱皮を終えなくては…。

 小出裕章:4号機燃料プールが崩壊すれば日本は"おしまい"です 。
 http://www.youtube.com/watch?v=a7h44TPMHuU&feature=youtu.be

7月1日(日)【希望
 長い週末がようやく終わりました。今朝下もアップした下のURL、今日なのにあわてて昨日の日付で出してしまいました。間違って行き損ねた方、見損ねた方がいらしたらごめんなさい!!!
 デモから帰ってさっきまで大飯原発現地で再稼働反対をしていた方々の「後夜祭」に見入っていました。大飯原発はとうとう再稼働されてしまいましたが、命を守るための戦いは終わったのではなく、むしろ今こそ始まったのだという感じがします。再稼働の知らせを聞いてなお反対を叫び続け、ドラムに合わせて踊り狂う大飯の勇者たちも、29日の官邸前の抗議集会に集まった数万の人々も、雨の中の新宿デモの参加者も、ひとりひとりがみな、この国の新たな運動の形と希望を生みだしつつあように思えます。
 個人の自由意思で集まり、非暴力を貫き、子どもの安全を心配し、警備の警官にも語りかけながら、命と未来を守るために毅然としてプロテストする人々がこんなにたくさんいたとは!
 NYタイムズ↓ 「彼らが立ち去った後には、ゴミひとつ、落ちてはいませんでした。」

RT:小林 順一@idonochawan さん:ついにニューヨークタイムズが、世界に向け発信!【 29日夜、数万の人々が首相官邸前に参集、猛抗議 】「『大きな音』、しかし通行人に道を譲る抗議者の姿が、至る所で見られた」ニューヨークタイムズ - 【星の金貨】緊急掲載・全文翻訳 → http://kobajun.chips.jp/

【原発やめろ野田やめろデモ】16時新宿
http://nodayamerodemo.tumblr.com/

【大飯現地 再稼働反対生中継】
 IWJ マルチチャンネル
 http://www.ustwrap.info/multi/iwj-fukui1::irene-channel::iwj-oita1::yuzuru-k::kenbor
 
6月28日(木)【私もならない】
 
RT:さんのツイート:デモにも行かず選挙にも行かず残業にも不眠にも負けぬ丈夫な体を持ち政府の増税にも決して怒らず日経を読んで静かに笑っている。東に原発に泣く人あれば黙って横を向き、西に瓦礫に怒る人があれば心配するな絆だと言う。池田信夫に共感する。そんな経済奴隷に私はならない。


Eminem- Not Afraid
http://www.youtube.com/watch?v=j5-yKhDd64s

【明日29日金曜!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働決定をただちに撤回せよ !6/29(金)18時〜首相官邸前と大阪・関電本店前にて再稼働反対の超大規模抗議!次こそ10万人の抗議を!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力下さい! http://coalitionagainstnukes.jp/?p=623


6月27日(水) 【知と力】

 以前私たちの世界は、新聞とテレビの記者やカメラマンがたどりついたところまでだった。記者が見たものしか見えず、記者が聞いたことしか聞こえなかった。
 それがインターネットの普及によって劇的に変わった。持てる者が持たない者に情報を投げ与え、世界をどう見るべきかを丸ごと教える時代は、ゆっくりと、だが確実に過ぎ去ろうとしている。
 報道機関にとっては本当にやりにくい時代になっているのだろう。ネット民の多くは、とくに3・11以降は、報道される「内容」を知るためというよりも、それぞれの新聞社や放送局がどういう報道の「仕方」をするかを知るために、いわば「検証」するために、ニュースを見ている。
 知りたいことの多くは、
記者の目や耳、取捨選択を通すことなく、現地の関係者の生の声、生の資料を直接ネットで知り、同時に多くの切実な呼びかけや協力要請も受ける。
 警戒区域の無残な実情を教えてくれたのは、動物救援のボランティアたちだったし、原発が本当にどのくらい、なぜ危ないのかを教えてくれたのも、事故が起きるずっと前から危険性を訴えてつづけてきた、大手マスコミにはなかなか登場しない専門家たちだった。
 原発サイトの情況も、作業員の募集の仕方も、動物実験や畜産の実情も、ペット産業の暗部も、文科省の線量測定の仕方やポストの高さも、すべてツイッター経由で知った。

 もとより、人が世界を知ろうとしてきたのは、たんに物知りになるためでなく、それを少しでもましなものにするためだった。知が力であるならば、ネット上に無限に広がり続ける知の場に住む人々は、それと知らずにこれまでの世界を作りかえるような力を蓄えつつあるに違いない。ゆっくりと、だが確実に。(もちろん、それまで世界が無事にあり続けてくれればの話だが)

【明後日金曜!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働決定をただちに撤回せよ !6/29(金)18時〜首相官邸前と大阪・関電本店前にて再稼働反対の超大規模抗議!次こそ10万人の抗議を!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力下さい! http://coalitionagainstnukes.jp/?p=623

6月26日(火) 【KY】
 「KY」(空気を読まないやつ)という語はもともとネットの掲示板で広まったらしいが、今ではもう死語になりつつあるといわれる。しかしあくまでも言葉だけだ。もとになった「空気を読め」の絶対命令は依然として健在であり、とりわけ原発事故の後は国じゅうをおおいつくして、人々を硬直させ、口をつぐませてきた
 小さな場の空気だけを読みながら小さなことだけを話題にしてきた人が、突然、国という大スケールの場に投げ出され、大きなことを話題にせざるを得なくなったとき、その「空気」を読むのは、たしかに容易ではない。
 事故の後、「空気」の読み方がわからず途方に暮れる人々に、導きの大きな手を差し伸べたのは、やはりテレビだった。報道番組もあれば、お笑いもバラエティー番組もあったが、今にして思えばどちらの導く先もただひとつだった。
 「さっきそこでボカスカ爆発したけれど、安全だからね。恐がることはないから、安心して何もいわずに日常の小さな場に帰りなさい。」そして多くの人はその空気を読んでもとの場に帰った。
 うろ覚えだが、ツイッターでこんなジョークも見かけた。「あ、地震だ!」 すると、アメリカ人は「テロか?」と色めきたち、フランス人は「芸術品を守れ」と走り……日本人は「今夜の夕食のおかず何にする?」
 地震でさえこうだとすれば、原発や消費税、戦争や平和、政治、経済、文学、哲学、歴史、などの話題となればなおさらだ。「夕食のおかず」が語られる空気の中で、そんな鼻もちならない話題は、内容の当否を問わず、口にするだけでたちまちKYになる。
 しかし日本じゅうがすみずみまで「夕食のおかず」の空気におおわれていたとしたら?
 ありがたいことに、「空気を読む」人々の顰蹙を買わずにこういうことを好きなだけ語れる場も日本には存在する。ツイッターやFace Bookだ。「KY」という語をはびこらせた掲示板と同じネット上に出現したこの「ひとりひと枠」の発言の場が、いつか空気を読む習慣を忘れさせてはくれないだろうか。


6月25日(月) 【しやせまし】
 日本に広く行き渡った行動否定の考え方がいつごろから始まったのか、不勉強でろくに知らないのだが、少なくとも兼好法師のころにはもう始まっていたようだ。

  しやせまし、せずやあらましと思う事は、おほやうは、せぬはよきなり(「徒然草」)
 
 人間は植物や他の動物と違い、やることなすことみな不完全で、生涯不全感につきまとわれている。あるときにあることを言えば他のことは言えないし、あることをすれば他のことはできない。一生かけたところで、どうせ、すべてを言いつくすことも、やりつくすこともできず、「これを言ってあれを言わなかった」「これをしてあれをしなかった」という結果になるにきまっている。
 しかも、どんなことを言おうと、どんなことをやろうと、そこには常にプラスの面とともにマイナスの面が生じる。そうした不完全さ、不全感を恐れ、マイナス面を避けようとすれば、「しようかしまいかと迷うときは、たいていは、しないほうがよろしい」という兼好の結論に自ずから行きつく。
 なにも言うな、なにもするな。これこそ日本流「賢人」の教えなのだろう。なにも言わず、なにもしなければ、プラスもないかわりにマイナスもない。それはゼロであり、死に等しい平安である。そして、その「賢人」のゼロの教え、死の教えに、わたしたちはあまりにも長い間従い続けてきた。
 死の教えの従順な奴隷であることが文字通りの死に到る道になろうとしている今、自分の内に眠る「馬鹿」を呼び起こさねばならないときが来ている。もし生きたいならば。

【今週金曜!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働決定をただちに撤回せよ !6/29(金)18時〜首相官邸前と大阪・関電本店前にて再稼働反対の超大規模抗議!次こそ10万人の抗議を!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力下さい! http://coalitionagainstnukes.jp/?p=623

6月23日(土) 【声】
 昨日、2012年6月22日はやはり記念すべき一日だった。ツイッターで呼びかけられ、ツイッターやフェイス・ブックで広まった官邸前の抗議集会参加者は、6月1日の2,700名からわずか3週目にして主催者発表で4万人を越えた。多くの参加者のひとりひとりは、自分でくり返し集会情報をリツイートし、集会についての自分のツイートを流しつづけ、多くの顔も知らない人々に知らせ、宣伝し、語ることによって、にわか主催者のひとりとなっていた。(私は呼びかけ人の名前さえ、きのうの報道で初めて知った。)
 この集会を大きく報じた「報道ステーション」により、その数万の声が、文字通り首相官邸内にとどき、大きく響きわたっていたことも初めて知った。「お客さん」でもなく傍観者でもない、この国と、この集会のまぎれもない「主人」たちの数万の声、当事者の声。それは、官邸の中以上に、私たち自身の中に響いている。
 来週、この声はさらに大きくなることだろう。

・再稼働撤回もとめ〜官邸前に人の波 (最後に「希望の牧場」の吉沢さんも)http://www.youtube.com/watch?v=ZtOlq5rRSsQ&feature=youtu.be (our PlanetTV)
・「再稼働反対」の地鳴り 首相官邸前で進む“紫陽花革命”
http://tanakaryusaku.jp/ (田中龍作ジャーナル)
・首相官邸前で再稼働反対デモ 
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012062390003515.html (東京新聞)
・ 大飯再稼働撤回求める 官邸前で「4万人」抗議  http://www.asahi.com/national/update/0622/TKY201206220491.html (朝日新聞)

6月21(木) 【官邸にいこう!
 私たちの生命にかかわる重大な事柄が、国民の意思を問うこともないままに、次々に決められている。しかし国民はまだ死んではいない。ここに、生きて、存在しており、この国の主権者なのだ。

・「原発問う住民投票条例案、都議会が否決 32万人署名」
http://www.asahi.com/national/update/0621/TKY201206200855.html
・RT宮台真司@miyadaiさんのツイート: 【拡散希望】20日の都議会本会議での原発都民投票条例の採決に際する議員の賛否行動データです http://ow.ly/bIVEO 。来年の都議会議員選挙における運動につなげるために、請求代表人の宮台真司から、広汎な拡散を希望いたします。ここからが本番です。持続可能な運動へ。

・【明日金曜18時!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働決定をただちに撤回せよ !6/22(金)18時〜首相官邸前と大阪・関電本店前にて再稼働反対の超大規模抗議を行います。10万人規模で抗議しましょう!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力を!→ http://twitnonukes.blogspot.jp/2012/06/622.html
 地下鉄丸ノ内線 国会議事堂前 3番出口

6月20日(水) 【「偽善禁止」を越えて】
 2チャンネルを始めとするさまざまなネット掲示板を見ていて気になる言葉のひとつに、「偽善禁止」がある。「人の性は悪にして、その善なるものは偽なり」の人間性悪説は紀元前からあるのだし、おびただしいネット民の中に、人間が生まれながらにどうしようもなく利己的な「ワル」だと考える人が少なからずいたとしても、怪しむには足りない。
 気になるのは、その人たちが性悪説の荀子のように利己的な動機を抑えようとするどころか、「善」に向かおうとする言葉を「禁止」していることだ。それは逆にいえば、わざわざ「禁止」しなければ、他人からも、自分自身のうちからも、利他的な「善」の言葉がついつい出てきてしまうことを意味してはいないか?
 だとすれば、いかに「ワル」ぶって、人間は「悪」であるという「真理」の上に開き直ろうとしても、禁止者の「悪」もまた不純であり、「偽悪」でしかない。「偽善禁止」はむしろ、彼らが痛切に善を求めながら、善であり得ず、善を成し得ないことへのいら立ちと絶望を示すものではないのか?
 たしかに、わたしたちの国には、人が善であるとことを禁止する制度が存在する。
 人が単に生きているだけで、すさまじい悪事の共犯者にならざるを得ない制度が。
 たとえば動物実験。人間の利益のための動物への拷問制度。
 日本では、年間1,000万匹にのぼる大小の動物が企業や研究機関の実験室で、苦痛のうちに生かされ、殺されているといわれる。
 より善くありたいと願う人を恥じ入らせ、あざ笑い、その口が「金より命」と言おうとするのを禁じ、ついには人の思考、思想そのものを不可能にする制度。
 だが一方で、その制度を改め、人がもう一度誇りをもって語り、思考し得る道を懸命に切り拓こうとしている人々もいる。 
 昨日「「動物の命」と「人と動物の共生」  ~動物の命と福祉を求めて・実験動物~」の勉強会に行った。台風の近づきつつある夕方、国会近くの300人の大会議室は、当初心配されたガラガラどころか、みるみる人で埋まり、熱気で埋まった。
 わたしも「偽善禁止」を乗り越えるための言葉を、ようやくひとつ、きちんと覚えた。
  動物実験の3R 
  ・Replacement(代替):動物を使わない実験に
  ・Reduction(削減):使う動物を必要最少限に
  ・Refinement(苦痛の軽減):苦痛軽減、安楽死措置、飼育環境改善など

 欧米諸国に比べ、日本はこの3Rにおいてもはるかに遅れており、実験動物を動物愛護法の愛護対象に加えようとする試みさえ、多大な困難に直面している。ここにも巨大な利権がからんでいるという。
 

6月18日(月) 【ならず者たち】
  またもや恐るべき、おぞましいニュース。寒気がし、吐き気がする。
  「米の放射線実測図、政府が放置 原発事故避難に生かさず」http://t.asahi.com/6x56 (朝日)

 ・アメリカがわざわざ二度も教えてくれたのに、
 ・文科省と保安院は「データを公表せず、首相官邸や原子力安全委員会にも伝えなかった」

 ・それを知らない「大勢の住民が汚染地域を避難先や避難経路に選んだ

 ・おかげで、人々は 「1時間当たり125マイクロシーベルトを超える高い線量(8時間で一般市民の年間被曝(ひばく)線量の限度を超える数値)」 を浴び続けた。 
 
 これはまぎれもない殺人未遂ではないのか?
 保安院と、この国の教育行政を担う文科省による未必の故意による殺人未遂(本当に未遂ですむのか?……)。
 この役人たちが、無数の住民の生命の危険と引き換えに守ろうとしたのはいったい何なのか? 職を賭してでも公表しようとする人は、ただのひとりもいなかったのか? 人々が深刻な被爆をしている間じゅう、それを知りながらずっと黙っていたのか?
  他人の生命など何とも思わぬ同じ役人たちのもとで、大飯原発と、国じゅうの原発の再稼働準備が、この国の教育が、進められている。 おまえなど死んでもいいのだという教育が……。「お国のために」を付け加えるべきか?

6月17日(日)緊急告知
 顔も知らない友人からメールをもらいました。
 
6月19日(火)夜に国会そばの衆議院議員会館で行われる議員との意見交流会へのお誘いです。動物愛護法の改正を求めるために、以下のテーマで行われます。
 
「動物の命」と「人と動物の共生」  ~動物の命と福祉を求めて・実験動物~
  http://thepetlaw.web.fc2.com/ivento.html
 私たちが住んでいるのが、ひどい国だとしたら、そのひどさの極まるところに、闇の最深部に、実験動物が置かれています。痛みと苦しみの中で生かされ、ゴミとして「処分」されています。
 想像したくもないし、しなくても想像がつきます。人間のよりよい人生のために、動物の一生を無残に叩き潰すのは、「仕方がない」ことなのか? それとも、動物たちの痛みと、私たちの心の痛みを少しでも減らすために、実は、少しでもなにか「仕方がある」のか。 
 主催者ペット法塾の「開催趣旨」は、その問いへの、現時点でのひとつの簡潔な答えとして読むことができます。
 友人のメールは、議員との交流会の参加予定者が少なく、会場がガラガラになるのではないかと心配するものでした。
 今、迷っているところです。動物と私自身のために、頭数のひとつにしかならなくても、万障繰り合わせて行こうかどうしようかと……。

6月16日(土)【首相官邸前、いっしょに行きませんか?】
 昨日の大飯原発再稼働反対集会には1万人以上集まりました。
・6月1日 2,700人→6月8日 4,000人→6月15日 11,000人1週ごとに倍倍に増えています。次回の22日、いっしょに行きませんか?  合言葉はひとつです。
・首相官邸前反原発デモの抗議行動 6月15日 再稼動を許すな!http://www.youtube.com/watch?v=HO_dqY4E6Qs&feature=related (YOUTUBE日没前)
・2012/06/15大飯原発再稼働抗議行動に11000人!!!@首相官邸前
http://www.youtube.com/watch?v=WCr6rMpvDic&feature=related (YOUTUBE日没後)
・「タハリール広場化する官邸前の再稼働反対集会」http://tanakaryusaku.jp/2012/06/0004498 (田中龍作ジャーナル)
RT世に倦む日日?@yoniumuhibi さんのツイート:政府の再稼働最終決定が出たけれど、不思議と敗北感がない。それは、昨日の1万1000人の官邸前デモの事実があるからだ。正直、これほどの数になるとは思わなかった。そして、マスコミがそれを示し合わせたように黙殺した事実も大きい。つまり、彼らは心底からデモを恐れているということ。
RTさんのツイート:書くのが得意な人は書こう! 話すのが得意な人は話そう! 考えるのが得意な人は考えよう! 行動するのが得意な人は動こう! 調べるのが得意な人は調べ上げよう! 優しい人、思慮深い人、色々な人が集まれば、きっとすごいことが出来る! 子供達を守る為に覚悟を決めて始めようよ!
・【来週金曜!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働決定をただちに撤回せよ !
6/22(金)18‐20時、首相官邸前にて原発再稼働反対の超大規模抗議行動を行います。10万人規模で抗議しましょう!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力下さい!→ http://twitnonukes.blogspot.jp/2012/06/622.html

6月14日(木)【ならず者の真実】
 
かりに、「自分が死んでもいい」という考えが嘘とばかりはいえず、半分でも真実だったとしよう。つまり、日頃思っていたとおり、自分が実際に死に臨んで「ああよかった、これで一切合切の面倒が終わる」と半分は思うとしよう。
 だとしたら、どうだというのか? やはりならず者だ。
 残りの半分の真実のほうはどうするのか?「もう少し生きていたい」と恥ずかしそうにつぶやいている、もう片方の半身はどうするのか?
 人は半分だけ死ぬことはできない。死んでもいい半分の自分が、生きたがっている半分の自分を、勇ましく、情け容赦なく、「未練だ!」と切って捨てることになる。
 自分の半身と無理心中してもいいと考える人が、他人と、世界と、無理心中してもいいと考えても、不思議でもなんでもない。
 そしてこの国に、その不思議でもなんでもない考えと、面倒を恐れ、生を恐れるならず者の勇気が蔓延する。それも今に始まったことではない。

 
6月13日(水)【ならず者の嘘】
 自分が死んでもいいと考える人が、他人が死んでもいいと考えても、不思議でもなんでもない。
 自分が死刑になりたいと考える人が、他人を死刑にしてもいいと考えても、不思議でもなんでもない。
 自分が放射能で死んでもいいと考える人が、他人が放射能で死んでも、世界が放射能で滅びてもかまわないと考えても、不思議でもなんでもない。
 
 問題は「自分が死んでもいい」という考えが、実は嘘だということだ。
 嘘が人をならず者にし、ならず者が嘘を現実にする。

今週金曜!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働迫る !6/15(金)18?20時、首相官邸前と大阪・関電本社前にて再稼働反対の大規模抗議行動を行います。万単位の人数で抗議しましょう!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力下さい!→ http://twitnonukes.blogspot.jp/2012/06/615.html

6月12日(火)【タナトス】
 大飯原発再稼働への恥も外聞もない準備が着々と進み、議会でも、社会でも、それほど大きな反対の動きも起きないのを見ていると、死んでもいいと思っている人がいかに多いかを痛感させられる。安全策はろくに講じられず、あたりにはもんじゅを含む12機もの原発が並び、事故が起きれば自分だって家族だって、ただではすまないことも知っている。
 それでも政治家も役人もマスコミ人も、地元の人々も、地元でない人々も、多くは、長いものに巻かれる楽な道を平然と進み続ける。そこには単なる想像力の欠如による根拠なき楽観を越えた、もっと根深い重大な問題がひそんでいるのだろう。
 面倒なことはしたくない、できれば何もせずに楽をしていたい、たらふく食べて頭に手ぬぐいをのせて温泉につかっていたい……何もしないこと、何も起きないこと、外的内的刺激の最小化に最大の幸せを見出すならば、それをつきつめれば、生まれる前の状態に行きつき、無に、死に行きつく。
 死こそ最大の幸せ、そう考えるとすれば、この国の多くのことに多少とも説明がつく。武士道がなぜ「死ぬこと」なのか、なぜ特攻隊なのか、なぜ総玉砕なのか、なぜ14年も連続で自殺者が3万人(交通事故死者の5,6倍だ)を越え、なぜ死刑になるために人を殺し、なぜサリンを撒き、なぜ危ないとすでにわかっている原発を再稼働するのか。
 しかし、この、ものに憑かれたような死への道行きが、日本の文化に組み込まれた根深い虚無感によるものであろうと、人類に組み込まれた根深い欲動によるものであろうと、人間は一方で自己を保存し、種を保存し、生き続けようとする意欲も持っている。単純なことだ。「今、死にたいか?」と自分に聞けば、たとえどんなに小さくとも、ありとあらゆる死への誘惑に抗して「いやだ」という声が返ってくるのだ。
 その小さな声の持ち主に闘いをあきらめさせる理由は何ひとつない。今も、これからも。
 
6月11日(月) 【表象と欲望】
 友人に誘ってもらい、横浜のみなとみらいに行った。数年前にエッシャーの展覧会を見にいって以来だが、何階層もが一望のもとに見わたせる駅のりっぱさに改めて圧倒され、なんだかエッシャーの絵の中を回っているような気がした。その後、外を散歩して、埠頭近くの「赤レンガ倉庫」を初めて見た。
  いかにも懐かしい感じのする堂々たる西洋建築で、1911年にできたというから、ちょうど100年ほど前だ。公園のむこうには様々な形をしたおしゃれな高層ビルが、この100年という時間の意味を教えるようにそこかしこに建っている。
  西洋にあこがれ、とにかく形だけでも一生懸命真似をしているうちに、とうとうここまできましたよという感じだ。倉庫は保税倉庫だったそうだが、横浜の港が開かれ、多くの人と、多くの物がこの国に流れ込むとともに、人々の欲望の火は燃えあがった。
 いったい人間はどんなものを夢見、創りだし、自分自身をどんなものに創り上げていくことができるのか? その気の遠くなるような可能性の展開過程は、もちろん今もなお続いているし、そしてこれからも続いていくはずだった。だが、本当に続くのか、続けられるのか? 
  みなとみらいの公園に見える一幅の絵は、天に向かってどんどん上っていくことが、とりもなおさず奈落に向かってどんどん落ちていくことであるような、エッシャー顔負けのだまし絵になっていた。
  たぶん、私たちは今、そういうだまし絵の出口を見出そうとしているのだ。自ら展開表現したイメージのせいで、表象の泉としての人間そのものを滅ぼさずにすむ、簡単には見つからない出口を。それは断じてもとに戻ることではない。しかし断じて、このまま道なりに行くことでもない。だまし絵の出口は、すでに描かれた絵の中に探すのではなく、新たに表象し、描きこまなくては……

6月10日(日)【THRIVE】
 TWITTERで話題になっていた2011年作の「THRIVE」を見た。
 宇宙や地球外生命体にからめて、この末期的な世界の仕組みのあらまし、そしてこれから人類が成すべきことを、2時間で語ってしまおうというあきれるほどスケールの大きい、いかにもアメリカらしいドキュメンタリーものだが、莫大な費用と10年の歳月をかけたといわれるだけあって、なかなかよくできていて飽きさせない。
 3・11以来、日本でもますます露わになりつつある金融資本主義の凶暴な正体、政財界と「主流マスコミ」の癒着ぶりなどとも照らし合う内容で、大資本の農業支配の問題を含めた個別の事象についても説得力のある説明がなされていた。
 最大の、そして致命的な欠点は、この世界のすべてが、結局は一種の陰謀論でまとめられ、一部の邪悪な化け物のようなエリートたちが自身の金儲けと権力欲のために一切を段取りしているという、あまりにも単純素朴な物語に仕立てられていることだ。
 それはわかりやすい2時間ものにするための方便ではすまされない重大な問題で、この映画の素材すべてが示し得たはずの真の恐ろしさを骨抜きにしてしまっている。
  現在の世界がこんなに風になってしまったのは、邪悪なトップ・エリートの陰謀の結果ではなく、世界じゅうの普通の人々がなんとか豊かに暮らそうと努力してきたことの結果なのだという、その恐ろしさ、普通の人々がよってたかって化け物のようなシステムを作り上げてしまった、その恐ろしさを。  
  http://www.thrivemovement.com/the_movie (日本語版あり)

6月9日(土)【王の言葉】
 500円で本屋に売っているDVDに、1933年作の「クリスチナ女王」という映画がある。17世紀に実在したスウエーデン女王をモデルにしたもので、恋物語部分はどうやらフィクションのようだが、30年戦争を終わらせ、平和をもたらすために尽力した理性豊かな勇気ある人物だったのはたしかなようだ。
 グレタ・ガルボ演ずる女王のいちばんの見どころもそこにある。
 議会では軍人はもとより貴族も聖職者も、勝利の勢いに乗ってスウェーデンの国益のため、もっと戦おうと好戦論一色だった。
 そこに女王が立ちあがり、戦争はもう充分だ、このままではヨーロッパじゅうが死の海になるではないか、「私は平和を求め、それを得る」と宣言し、その言葉通りにする。
 ここでも、つまるところは「命か金か」である。莫大な賠償金の額を心配する満座の議員たちのなかで、女王ただひとりが「金より命」だと口に出して言う勇気をもち、女王ただひとりが、倫理を経済に優先させる言葉をもっていた。
 映画で見るかぎり、王とは、そういう言葉を語るためにこそ置かれているようにさえ見える。父王の戦死によってクリスチナが6歳で王位についたとき、人々はその幼女が前を通るたびに深々と90度のお辞儀をしつづけた。それはつまるところ、金勘定を越えた倫理的な最終決断を付託する相手への敬意だったように思える。
 チャーチルのいう「最悪だが、それ以上のものが見つかっていない」民主制。それをまがりなりにも採用した日本で、まだ、民の代表は、自身の主としての言葉、「王の言葉」を語る勇気をもてずにいる。

6月8日(金)【生命と生活】
 残念ながら、6日に予想したとおりになった。理由も予想どおりだった。
 首相は結局、「国民の生活を守るため」に、大飯原発の再稼働を決めた。
 政治が守らねばならないのは「生命と生活」のはずだが、「生命」のほうは見事にスルー。
  生命がなくなれば生活もなにもないという、あたりまえのことを、本当に忘れてしまったようだ
  日々生命を脅かされる生活が、到底生活と呼べるような代物ではないことも思いつかないらしい。
  しかもフクシマでは、辛くも生き延びた人々、16万人の生活が吹き飛び、今なお自殺者まで出ていることも忘れてしまったらしい。
  問題は、私たちのこういう首相と、私たちのこういう政府から、どうやって身を守るか、そして同時に、私たち自身の「生命より生活」という根深い倒錯からどうやって生命を守るかだ。

6月6日(水) 【職責】
 野田首相の大飯原発再稼働に向けた「私の責任で判断する」という発言に批判が集まっている。 
 たしかに彼は大資本に対して、財界に対してのみ責任を負おうとしているように見える。
 しかし、彼がそれこそ国民のためであり、日本のためだと本気で思っていることも大いにあり得る。さもなければあんなに真面目な顔ではとてもいえないだろう。
 だとしたら、事態は一層深刻だ。
 首相の職責が、国民の「命と暮らし」を守ることにあるのは当然としても、彼はその二項目の優先順位を明らかに取り違えている。
 国民全体が原発の銃口をつきつけられて「命か金か」を問われているときに、彼ひとりの「責任」で「金!」と答えられてはたまらない(その銃口は彼にだけ火を吹くわけではない)。
 ホールドアップ状況での答えは、ひとつしかない。
 たとえ持ち金をすっかり失っても、命があれば人はいくらでもやり直すことができるし、ひょっとしたらその中で、万人に「職責」の取り違いを強要し、真面目な顔で「金!」と答えることを強要する、この狂ったネズミ講システムの出口を見出すこともできるかもしれない。
 
6月5日(火) 【責任もとれないのに「私の責任で」と言わないでください】
 友人がネット署名依頼のメールを送ってくれました。転載します。

 皆さまへ
> 大飯原発3・4号の再稼働は風雲急を告げています。
> 今週末にも福井県知事が了承し、野田首相が再稼働を決定しようとしています。
> 再稼働に反対する多くの声を示しましょう。
> グリーン・アクション、美浜の会、FoE Japan、フクロウの会、グリーンピースの5団体は、緊急ネット署名を呼びかけます。
> ぜひ、ご協力お願いします。拡散してください。ツイッターなどでも広めてください。
> 署名は、福井と東京で提出予定です。
>> ★
署名の締め切り:6月7日(木)正午です。
>
> ★ネット署名は5団体のHPから入れます。
> 緊急ネット署名(美浜の会HPからは) http://www.jca.apc.org/mihama/
>
> 署名フォームへは直接こちらから。PCでも携帯からでもOKです。
> https://fs222.formasp.jp/k282/form2/

6月4日(月) 【カッコーの巣の上で】
 めずらしく風邪をひいてしまったので、咳をしたり洟をかんだりしながら寝ころんでDVDを見た。いまさらながら1975年作、アメリカン・ニューシネマの「カッコーの巣の上で」。原作は読んでいないが、映画は見るからに寓話的だ。またまた「賢人と馬鹿と奴隷」のキャラクターを当てはめてみる。
 看護婦長を始めとする、精神病院の管理システム維持のためのスタッフが「賢人」。そのシステムに監禁され、管理されているおとなしい患者たちが「奴隷」。
 「賢人」と「奴隷」ばかりでは現状が延々と続くばかりで話にならないので、主人公、マクマーフィーという「馬鹿」が登場する。
  刑務所の労働をサボるために狂ったふりをして精神病院への入院に成功した主人公は、すぐさま考えが甘かったことに気づく。刑務所で監禁されたのは肉体だけだが、病院は精神をも監禁しようとし、それがへたをすると無期限に続く。
 主人公がいちばんショックを受けたのは、患者の多くが自発的に入院していることだった。刑務所の囚人が渇望するまさにその自由から自分を守ってもらうために、病院に保護を求めているのだ。馬鹿は早速その病院に風穴を開けにかかるが……

 この国、この世界、そのものの話のようでもあり、わが内なる世界の話のようでもある。外であれ内であれ、賢人と奴隷のあいだに馬鹿が顔を出すたびに始まるものの、そのたびに袋叩きにあうので、何度でも始め直すしかない話、古いようでいて永遠に新しい話。
 
6月2日(土) 【賢人と馬鹿と奴隷】 
  魯迅の『野草』に「賢人と馬鹿と奴隷」という寓話がある。自分の小屋が「暗くて、臭くて、じめじめしている」とこぼす奴隷のために、小屋に窓をあけてやろうとして、馬鹿が袋叩きにあう話だが、そのキャラを借りて原発編にすると、こんな風になる。
 
馬鹿:あぶない! さあ、止めにいこう!

賢人
: 今度も爆発するとはかぎらないだろう?
   行って効果あるの?
   あんた、どういう組織?

   正義をふりかざすなよ!

奴隷:原発のおかげで食べているのに、主人に叱られます
   食べていくのに精いっぱいで、あんたみたいに暇じゃないの

   どうせみんな行かないよ
   死んだっていいや、どうせ奴隷の人生だし

 結末はどうなるのだろう。今度は原発が爆発せず、やはり馬鹿は馬鹿だったということになるのか、あるいは爆発して馬鹿も賢人も奴隷も……

6月1日(金) 【子どもを救え】
 
首相官邸前と大阪・関電本社前で行われた大飯原発再稼働反対の集会。官邸前は2、500名、関電本社前は1,000名、それぞれ過去最多の規模となった。官邸前には福島みずほさんも。そして小さい子どもの姿もちらほら。親のまねをして「さいかどう、はんたい」とくり返していた。私たちもくり返しつづけなくては。そのことばの意味もわかっているのだし。

 ・RT
さんのツイート:予想以上に凄い人数!みんなめちゃくちゃ怒ってる。

5月31日(木) 【
笑うな(続き)
 政府はついに大飯原発を再稼働させ、集団自殺への道を突き進むことに決めたようだ。関西連合の首長たちも、迷ったあげく、そこで踏みとどまることもできず、結局は集団自殺を容認した。
 人々の身の安全を守るためでないとすれば、政治も、政府も、いったい何のためにあり、われわれは何のために税金を払っているのか。
 生命の安全はすべてに優先する。 市民を虐殺し続けるシリアのアサド政権の政治がもはや政治でないとすれば、日本にも政治はない。
 
・RT さんのツイート:  うんこでしょ。 RT : なんだ、この国。

さんのツイート:原発再稼働反対! RT
首相官邸 内閣府 「国民の声」は移転し現在は電話での受付はしていないとのこと。 内閣府代表はこちら。 03-5253-2111 繋いでもらえます

今晩です。【今週金曜!緊急大拡散!】#大飯原発再稼働迫る !6/1(金)18?20時、首相官邸前と大阪・関電本社前にて再稼働反対の大規模抗議行動を行います。今までを遥かに上回る規模でご参集を!このページの「ツイート」ボタンで拡散にご協力下さい!→http://coalitionagainstnukes.jp/?p=549 (首都圏反原発連合HPより)

5月30日(水) 【笑うな】
 ささやかな日常にしがみつきながら、底がぬけてしまったその日常の頼りなさを日々思い知らされているこのごろ、ふさわしい読み物といえば、やはり、「想定外もの」だ。
 ①うろ覚えだが、高橋留美子の「うる星やつら」に、たしかこんなシーンがあった。
 ある日、あろうことか、学校の授業中に生徒のひとりが突然教室の天井あたりを飛びはじめる。
 生徒:「先生、○○ちゃんが、飛んでますよ!」
 先生:(ちらりとそれを見上げて)「ああ、それは思春期にありがちな……」

 ②筒井康隆の「笑うな」は、たぶん「想定外もの」の最高傑作のひとつだろう。
 ある日、あろうことか、ある男がタイム・マシンを発明してしまう。そのこと自体はともかく、問題はそれを、彼自身もどっぷり浸かる日常感溢れる風景のなかで、どうやって友だちに伝えるかだ。
 「ナ、なんだよう、早く言えよ」
 「あの、マア、言うけどさ、言うけど笑うなよ」
 「だって自分が笑っているじゃないか」
 「そうか、ま、まあいいや、あの」
 「なんだ」
 「じつは、タイム・マシンを発明した」
 「…………………………」
 (続きは本を買って読みましょう)

 ③ そして、いよいよ本番である。
 ある日、あろうことか、フクシマで……と始まるわけだが、この想定外の事態のこれまでの伝えられ方は、周知のとおりだ。ジョークは真面目くさっていえばいうほど可笑しさが増す。今なお厚みを増しつつあるこの筒井を凌ぐ傑作ぞろいの21世紀ジョーク集の題名も、やはり「笑うな」とすべきか……
 (続きはテレビか新聞で見ましょう)

5月29日(火)【立論】
 魯迅は『野草』の「立論」で、赤ん坊の将来について4通りの語り方を紹介している。
 ある家に赤ん坊が生まれ、客たちがその子の将来についてひとことずつ述べる形だ。

客①はいう。「この子は将来、金をもうけるでしょう」
客②はいう。「この子は将来、役人になるでしょう」
客③はいう。「この子は将来、死ぬでしょう。」

ご覧の通り、客①、客②の予言は外れてウソになるかもしれないが、客③の予言は必ず当たる真実である。しかし客③は「空気を読まない」まぎれもないKYとされ、袋叩きにあう。ウソはつきたくないが、殴られたくない人はどういうべきか。魯迅の案は……)
客④「おやまあ、この子ったら、ごらんなさい、なんと……。あれまあ、ハハ! Hehe!he,hehehehe!」
 
 おそらく今、この国の赤ん坊の将来について人々がいっていることも、上記4通りのどれかに収斂する。依然として経済的豊かさを第一とする人もいれば、安定した暮らしを第一とする人もいる。他方では、必然としての死ばかりか、それが偶然によって早まる恐れまで指摘して、袋叩きにあっている人もいる。
 そしてもちろん、「Hehe!he,hehehehe!」の人もいる。たくさんいる。おそらく一番人気だろう。これで当人はウソもつかず殴られもせずにすむわけだが、肝心の赤ん坊にとってはひどくまずいことになりそうだ。なぜならこの人たちは、そもそも、この国の「客」でなどないのだから。
  
5月28日(月)【天問】
 中国戦国時代の『楚辞』に「天問」という、問いだけからなる詩集があって、天地の始まりについて、だれがそれを伝えたのか、天地がなぜ、どうしてこうなったのかを始め、壮大なスケールでさまざまな疑問が連ねられている。しかし、それを問うた人がだれであるのか、また「天問」というのが「天が問う」という意味なのか、「天に問う」という意味なのかも定かではないようだ。
 わたしたちの時代も大小の疑問で溢れている。しかし、それは天地の始まりについての問いであるよりも、この時代にほの見えてきた天地の終わりにかかわる問いであって、より緊急切実であるように思える。
 天地の間のこの世界は、なぜ、いつから、どのようにしてこんな風になってしまったのか? だれがこんな風にしてしまったのか? どうすれば天地を終わらせずにすむのか? 天地のあいだにひとり立つ者はどうすればいいのか?
 問うているあなたはいったいだれなのか? いったいだれに問うているのか? だれが答えるのか?
 
「一時帰宅の男性、遺体で発見 福島・浪江町、自殺か」 (47NEWS 共同通信)http://www.47news.jp/CN/201205/CN2012052801001859.html

5月27日(日)【私の名は……】
 日本最大の掲示板2チャンネルで、ときたまニュース関係のスレッドを見てきた。面白いのは書き込みに使われる名前に流行があることだ。

・見始めたころは、「名無しさん」ばかりだった。
・3・11の後は、  「もうお腹いっぱい」さんがどっと現れた。
・メルトダウンが始まると、「涙目です」さんで溢れかえった。
・最近見たらまた、「名無し」さんが大幅に増えていたが、ただの「名無し」ではない。
         「地震雷火事名無し」さんになっている。

 世界に名だたるわれら従順な日本の畜群は、今もほとんどもの言わぬ社畜、社外畜、役所畜(これこそ「役畜」か?)、学畜などから成るとはいえ、警戒区域の牛たちのように、本当にもの言えぬわけではない。わたしたちを幾重にも囲う巨大資本の家畜小屋の檻のなかで、名前も、顔も、表情も持たなかった群れの一頭一頭が、今ひそかに、もしかしたら、少なくとも、ようやく、ある種の表情を、感情を、もち始めているのかもしれない。そしてただの頭数、ただの名無しには収まりきれない一頭として、ものを言い始めようとしているのだ。
こういう私の名も、地震雷火事名無しである。

5月26日(土)【幾度、天が落ちてこようとも】
 
D・H・ロレンスは、「チャタレイ夫人の恋人」の冒頭にこう書いている。
 「われわれの時代は本質的に悲劇的である。だからわれわれはそれを悲劇的に取ることを拒絶する」
 彼のいう第一次世界大戦後の「われわれの時代」は、途切れることなく今の「われわれの時代」に続いてきた。だが、その色調も感触もなんと変わってきたことか。 
 今、フクシマの後で、われわれは、その中の一語を言い換えたい誘惑に駆られる。
 「われわれの時代は本質的に喜劇的である。だからわれわれはそれを喜劇的に取ることを拒絶する」と。
 悲劇的な喜劇、喜劇的な悲劇によって、何倍にも、何十倍にも大きく深く広がった精神の廃墟の中に、われわれはまだ立ちすくんでいる。しかし、ロレンスの時代から「新しい小さな希望をもつために」、幾度となくくり返されてきた「新しい小さな住家を作る」無数の試みが、結局はほとんど成功することなく今に至ったのだとしても、われわれも、もう一度、いや何度でも、それを試さなければならない。
  ロレンスはこう言っていた。
  われわれは生きなければならない。幾度、天が落ちてこようとも。

5月25日(金)【「原発」都民投票と国民投票】
 ・ 5月初めに提出された直接請求のその後について、事務局よりお知らせが来た。「原発」都民投票に都議会・民主党が賛成の姿勢固めたとのこと。すでに生活者ネットと共産党も賛成を決めており、過半数獲得=条例制定=「原発」都民投票実施まであと3議席。」
・政府と国会に「原発」国民投票の実現を働きかけるWEB署名、賛同人も募集中。
 意見の別れていた市民案も第4次案で修正されている。
 
http://kokumintohyo.com/

5月24日(木)【杞憂の意味】
 RT: さんのツイート: 「好きな滅亡方法を選ぶドン! ・隕石 ・宇宙人の侵略 ・核戦争 ・経済崩壊(既に実行済みです) ・噴火(既に実行済みです) ・洪水(既に実行済みです) ・大地震(既に実行済みです) ・メルトダウン(既に実行済みです) Exice 」

 補足すれば、今日のニュース・ウォッチ9でやっていた津波後の都市火災(実にリアルだった)もあるし、運がよければ、内部被爆の累積でそれと知らずに布団の上で逝くという選択肢もあるかもしれない。メルトダウンについては日本の50機のうちどれがいいか、大飯か、刈羽か、伊方か、玄海か、はたまた国外か、など、もっときめ細かく吟味して選びたい人もいることだろう。太陽のスーパー・フレアもある。
 そういえば、中国の故事に基づく「杞憂」という熟語があった。早くも周の時代(紀元前ですよお!)、杞の国のある人が、天が崩れ落ちるのではないかと心配していたらしい。今向きの人だドン! 今だったらそれが「取り越し苦労」だなどとはだれにもいわせまい。
 それよりも、その杞の国の人がもし生きていれば、今の辞書の語釈に真っ先に異議を唱えることだろう。「杞憂」とは、自己欺瞞の夢のような楽観に安住せず、現実を直視するこだと。
 天を崩落させることができ、現にそうしようとしているのは、今や、天ばかりではない。
 
5月23日(水)【フクシマの後で書くこと】
 0時直後に、PCにセットした緊急地震速報のカエルが鳴って、青森で震度5強。いやでも六ヶ所村が心配になる。すでにここに二行ほど『御伽草紙』の「猫のさうし」のことを書きかけていたのだが、それどころではない気分になって消してしまった。「アウシュヴィッツの後」に「詩を書くのは野蛮」になったとしたら、「フクシマの後」では、身辺雑事はもちろん、日常的なちょっといい話や、ちょっと面白い話を書くのも、悪い冗談になってしまった。
 昨年TWITTERに出所不明の、「もんじゅ」に事故が起きた場合の被害予想図なるものが出回り、それを見て思わず吹き出して、深夜ひとりPCの前で笑い転げたものだが、出所確かなこの六ヶ所村の被害予想図もやはり笑うしかない。施設が満杯の場合、わずか1%漏出でこのありさまだ。しかも耐震補強も充分ではないらしい。http://cnic.jp/modules/smartsection/item.php?itemid=20 (原子力資料情報室)
 悪い冗談としかいいようのない、あまりにも非現実的なこの図こそわたしたちが直面する現実だとしたら、日々のいかにも現実的な現実のほうこそ、吹き出すしかない悪い冗談なのだ。昨年来、「人間が人間であるために」のページを書くのがあんなに窮屈だったのは、怠惰のせいばかりではない。「フクシマの後」だったからなのだ。
 詩も書けない。今のにせよ、昔のにせよ、小さな話も書けない。過去と現在のみならず、未来の小さな物語さえ、跡形もなく爆破しようとしている暴力そのものとしての現実の前で、人はいったい何をどう語り得るのか、何をどう語るべきなのか。 


5月22日(火)【ハクビシン】
  超お勧め、犬猫みなしご救援隊・栃木拠点のブログ。その後いろいろな動物が増えています。タヌキ、仔馬、ヤギ、そしてハクビシン。
  http://blog.livedoor.jp/inunekoblog/archives/7335169.html
○ ハクビシンがなぜここにいるのか知りたい方はこちら↓
  http://blog.livedoor.jp/inunekoblog/archives/6936050.html
○子ヤギのひなちゃんの楽しい車椅子ビデオを見たいはこれ↓を下へスクロール。
  http://blog.livedoor.jp/inunekoblog/archives/6806235.html

 5月21日(月)【金環日食】
 金環日食があったらしい。肉眼で見るのが危ないといわれるものを、わざわざ眼鏡を買って見る気になれず。結局テレビで済ませた。なんだか太陽まで商品化されてしまったような感じがする。今回は900何年ぶりで、次は300年後とのことだが、人類が無事生き延びているとして、300年後の人はどんな風にその金環食を見るのだろう。
 NHKのテレビで見る、などということはよもやあるまいが、また何万個、何十万個、何百万個も使い捨て眼鏡が売られるのか、それとも地上を埋め尽くした燃やせないゴミの後始末に忙しくてそれどころではないか? どの道、金環食であろうがなかろうが、あの太陽は日々、一瞬一瞬、900年どころか、有史以来、宇宙開闢以来初めての光を放ちつづけている。

 網野善彦氏によれば、日本において人間と自然の関係が変わったのは十四世紀らしい。社会が「文明化」するなかで、「穢れ」への畏れが薄れ、動物への畏れも薄れていったという。 その両者が意味するのは、わたしたち人間を含むすべての生命、生命そのものへの畏れの減退にほかならない。
 十四世紀からの自然への、生命への感じ方の変化は今、行きつくところまで行きついているのだろうか。それともわたしたちの「文明」は、生命への畏怖が、生命が、完全に死滅するところまで、さらに加速度をつけて突き進むのだろうか。要するに、300年後の金環食を見ることのできる者はいるのだろうか。

5月20日(日)【眉間尺】
 動物の書き方を見ると作家の力量がわかる。カフカの動物寓話は見事というしかなく、残雪の小説をただ通り過ぎていくだけの猫や、変な鳥も、はっとするほど生きている。
「あの鉄の檻に閉じこめられた狼さえ、狭い天地を日夜走りまわっているではないか」

 ずいぶん前に上野公園の池の端で、狐と狸が隣り合わせにされて、向きを変えるのもやっとの狭い檻の中をぐるぐる回っているのを見た。そこに居たたまれなかったのは、その狐が私で、私がその狐にほかならないからだ。ああ動物園! その中と外に無限に続く私の檻、檻、檻……。警戒区域では、牛小屋の戸を壊して牛を解放してまわった人がいたという。
 魯迅は「鋳剣」で恐ろしいほど精確に見事に、鼠を、人間を、描いている。少年眉間尺がある晩、水がめに鼠が落ちたのに気づき、日頃悩まされている腹いせに、葦でつついて溺れさせようとするのだが、鼠も必死で、その葦を伝って上がってこようとする。赤い小さな鼻をした鼠。生々しい生命への憎しみと嫌悪、愛と憐憫の狭間に立ちすくんでいる少年に、母親が問う。
「おまえはそれを殺しているのかい? それとも救っているのかい?」
 結局のところ、眉間尺は、その問いに答えるために旅に出たのだ。

5月19日(土)【蟻】
  夏が近づき、いよいよ本格的な虫の季節が始まった。玄関前のコンクリートにも、道端にも、よく見れば道の真ん中にも、蟻たちが慌ただしく行き交っている。知らずにもう、たくさん踏みつぶしているのだろう。
 数年前、その蟻たちが猫ドアの隙間からわが家の台所に行列して入ってきた。気がついたときにはとにかくものすごい数になっていて、壁際はもちろん、いたるところを走りまわっていた。目当てのものが何なのかわからないまま、ネットで調べても妙案はなく、途方に暮れていたが、やがて、餌につられて入ってきたものは餌で釣ればよいと外に出て、行列の近くに砂糖の山を置いたら、なんとか出ていってくれた。後で蟻の入った道筋にはチョークを塗っておいた。
 きのうは空のバスタブの中にムカデがいて、咬まれないようティッシュでつまんで外に出した。虫の侵入がが悩ましいのは、欲しくもない生殺与奪の権を握らされ、あの究極の問題をいちいちつきつけられるからだ。おまえは生かすのか? 殺すのか? とりあえず、空を飛び、地を這う小虫用に今年も専用のガラスのコップと葉書を一枚用意しておく。今朝は釜揚げしらすを山ほど食べたのだが……・

5月18日(金)【アッサジ】
 動物と人間の究極の物語として、覚えているものがふたつあった。ひとつは釈迦が修行中におなかをすかせて焚火をしていたら、そこに兔がやってきて、自分を食べてくれと自ら焚火に跳び込んだという話。もうひとつは、釈迦の弟子が、おなかをすかせた狼の親子を見て、自分を食べてくれとその前に身を横たえたという話。
 実をいうと、この対になる話を自分がいつ、どうして知ったのか、まったく覚えていなかった。これまで読んだそう多くはない仏典の中か、昔、通訳の仕事で泊まり歩いたホテルの机にギデオン協会の聖書といっしょに入っていた仏教聖典あたりだろうと思っていたが、ネットで調べてみたら、なんと手塚治虫の漫画『ブッダ』だった。
 たぶん三十年以上前のことだろう。自分では『ブッダ』を読んだことさえ忘れていたのに、この話だけはしっかり覚えていて、折に触れて思い出していた(ような気がする)。とくに後の話は鮮烈に。狼の前に、わたしの肉を食べてくれと身を横たえたのはアッサジ(阿説示)という人だったらしい。
 動物と人間のすべての物語は、このふたつの最果ての光景のあいだに並んでいくのだろう。

5月17日(木)【支援要請】
 RT:
さんのツイート:この7~8年、僅かだが幾つかのシェルターの支援を続けている。どこも個人レベルかごく小さいNPOで常にギリギリの状態。殆ど寄付と持ち出しのみで幾つもの命を預かる不安と心配は、特に日本の場合、こちらの想像を超えていると思う。ぜひご一読を→

5月16日(水)【大審問官】
 考えて見るとやはり面白い。人間は猫や犬を、それが猫や犬だというだけで愛することができ、抱きしめたいとさえ思うのに、同類に対してはそうではない。以前、母が外国の観光地で乗った象に、落としたカメラのキャップを拾ってもらい、いたく感激して話していたが、相手が人間ならもちろん、とうに忘れていただろう。
 人類が無条件に愛することのできるこういう友を持てたのは本当にありがたい。それは少なくとも人類がそういう風に愛する能力をもつことを証明するものだ。しかし相手が同類となると、それがにわかに不可能になる。だれでもよいどころか、選びに選んだあげくほとんどだれも残らなかったりする。たとえ残ったにしても、なんとか互いに我慢できる程度で、無条件に抱きしめたいというにはほど遠い。
 やはり障害は言葉だろうか。言葉を話し始める前、人類は同じ集団にいる者同士、互いに折に触れて、だれかれとなく抱きあっていたのだろうか。 「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の、あの衝撃的な接吻の前、キリストは大審問官の追及に終始無言だった。彼はもしかしたら、犬や猫が人間をなめるように、あるいは人間が犬や猫を抱きしめるように、人間に接吻することができたのかもしれない。彼は言葉を聞きながら、その外にいたのだろうか。

5月15日(火)【猫に逢ったら】
 今日近所の本屋に行ったら動物本のコーナーがあって、出版を待っていたのに買い忘れていた二冊の本があったので早速買ってきた。福島警戒区域の動物救援にあたってきた
カメラマン太田康介氏の『待ちつづける動物たち』と、犬猫みなしご救援隊&カメラマン金子二三夫氏の『鼓動』。
 それをめくっているうちにあることに気づいた、というか、前から気づいていたことが言葉になった。この写真集に写っているどの犬や猫も、一匹残らず、ずっと前からよく知っていた馴染みの顔のような気がするのだ。見慣れない顔の犬、初めて見るような顔の猫、というのはひょっとしたらいないのではないだろうか?犬や猫の顔の個体差が小さいというわけではない。犬猫みなしご救援隊の中谷さんなどは、呼び名を忘れることはあっても、百匹を軽く越える犬猫の区別がついているはずだ。
 それにもかかわらず、どの犬にもどの猫にも魅かれ、懐かしさを感じるのは、私たちにとって犬猫の個性より種の属性のほうがはるかに吸引力があるということだ。それはひょっとしたら哺乳類のほとんど全体にさえ及ぶかもしれない。ただし、人間という種を除いて。だとしたら、人間の属性とは、また個性とはいったい何なのだろう。
 「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢えば親類を殺し……」(「臨済録」入矢義高訳)
 
5月14日(月)【反響】
 子どものころ、ときどき姉と互いに相手の口まねをしあったことがある。もちろん、いやがらせである。相手がしゃべったことをいちいち同じ口調でオウム返しし、相手の声の鏡になって、相手のしゃべり方のいやらしさ、そういうしゃべり方をする相手のいやらしさを、相手に思い知らせるのだ。そのままの口調で反響してくる自分の声に耐えられるしゃべり方など、あるはずがない。本気で真剣にしゃべっているときほどダメージは大きいが、わざとふざけてしゃべれば無傷でいられるわけでもない。そしてしまいにふたりとも黙りこんでしまう。先にしゃべったほうが負けるからだ。
 しかし今にして思えば、先に黙ったほうが負けていたのだ。

5月10日(金)【ゴミとゴミ箱】
 わたしたちは、この世が人間の不幸だけで飽和していて、身近な家畜の一層の不幸など存在しないかのように生きてきた。身近に暮らしていれば、首を抱いて、なでてやりたくなるようなやさしい動物を育てておきながら、ある日突然それを裏切り、他人の手に渡し、脳天を殴りつけ、鉄棒を突っこみ、悶絶させて殺してしまう。しかもそれが、異常事態でも突発事でもなんでもなく、世界の日常であり、わたしたちが食べていくためのシステムなのである。
 こういうシステムのただ中で生きているかぎり、人はだれひとり潔白であることはできない。知らないか、知らないふりをするのでないかぎり、底知れない後ろめたさ、疚しさを隠してすがすがしい朝を迎えることはできない。そのシステムが暗に前提するように、人間が、単なる物質的欲望の容器にほかならず、人間以外の種をその欲望の対象たる物質と見做すことしか知らない化け物か、いっそ産業用ロボットであったならば、むしろわたしたちは潔白でいられただろう。

 けれどもわたしたちは、最初から、毛の生えたあの暖かな生き物たちが、物質ではなく、石でも木でも大豆でもなく、わたしたちが顔を寄せればその顔をそっとなめてくれ、子どもを奪われれば血眼で探しまわり、親から引き離されればひとばんじゅうか細い悲痛な鳴き声をあげる生き物だということを知っていたし、その生き物が恐れも不安も痛みも感じ、ひょっとしたらわたしたち以上に愛することもできるのを知っていた。犬はなぜ、彼を動物愛護センターのガス室にもちこむ飼い主に、最後までしっぽを振りつづけるのか。
 動物を物と見なすシステムは、もちろん、人間をも物と見なすシステム以外ではありえなかった。必要でもない物を、ゴミを、より多く生産し、より多く売ろうとする人間は、自ら、それをより多く受け容れるためのゴミ箱になった。物になり、ゴミになることから、人間という種だけを救ううまい手など、もともとありはしなかったのだ。

5月10日(木)【と畜】
 人間の口に入る牛が、日々どうやって殺されているのか。これまでTWITTERでさまざまな案内のURLを見かけても、正直これだけはどうしてもクリックして見る勇気がなかった。警戒区域の牛の惨状を知り、肉をほとんど食べなくなってだいぶ経ったからだろうか、ようやく、やはり事実を知ろうという気になって、下のURLをクリックした。恐れていた写真もビデオ映像もなく、抑制のきいた口調で静かにつづられた文章だった。長いこと他人に殺してもらった肉を知らん顔をして食べてきた人間のひとりとして、ようやく最低限の義務をひとつ果たした気がする。

RT:さんのツイート:と畜(と殺)見学に行ってきました。

5月9日(水)【忘れたころに】
 うろ覚えだが、だいぶ昔の中崎たつやの漫画(たぶん「じみへん」)に、こういうのがあった。
 災害は「忘れたころにやってくる」わけだが、例の中年のめがね男(だったと思う)が、「そうか、じゃあ忘れなければいいんだな」との結論に達し、始終そのことを思い出している。ほんとうに朝な夕ないつも思い出しているのだが、あるとき、「わっ、あやうく忘れるところだったぜ」(終わり)
 なんだかその気持ちが、とてもよくわかる今日このごろだ。
 ただもう自分が忘れないというそれだけによって、その記憶の糸ひと筋によって、かろうじて全世界の破局を食い止めているような、そんな気になっている。

5月8日(火)【見えるものと見えないもの】
 放射能は目に見えない。原発事故で大パニックが起きなかった最大の理由はそれだろう。テレビで何度も原発建屋爆発の様子を見たけれど、実をいえば今から50年近く前、新潟地震の際に、昭和石油の石油タンクが爆発炎上して黒煙をあげるのを遠くから眺めたのと大差はなかった。白煙も黒煙もやがて薄まり見えなくなった。(「フクシマ50」の人々や、爆発時、現場で間近にそれを見た人々はみな、どこでどうしているのだろう?)
 風に乗って広がった放射能については何の実感もなく、色分けされた汚染マップや、地域別の線量リストの数字として、あるいは自分で測ったカウンターの数字として知っているだけだ。かりに、放射能が煤やほこりのように目に見え、黒い色でもついていたとしたら、どうなっていただろう? 黒い薄汚れた空気の中で黒い雨に降られ、黒く汚れた土の上の黒い家に住み、黒く汚れた野菜や魚を食べ続けることなど、だれも耐えられなかっただろうし、東電や政府がなんといおうと、再稼働どころではなく、福島の高濃度汚染地域はとうに無人になっていたにちがいない。
 しかし幸か不幸か、放射能には色もついておらず、目にも見えなかった。それはわたしたちにとって、結局のところ、ただの数字に過ぎない。身近な者や自分自身の身体が蝕まれるまでは。いや、それだって放射能のせいだと断言するのは難しいのだろう。ひょっとしたら、テレビではなく、すぐ目の前で爆発が起き、轟音とともにすべてが崩れ落ち、煙が噴き上がり、青い光が走り、目の前で人がばたばた倒れ、自分が息絶えていくそのときまで、放射能を「見る」ことはないのかもしれない。
 しかしわたしたちが唯一見ることのできるあの数字も、数字をめぐる無数の解説も、考えてみれば、目に見えないものを見ようとしてきたおびただしい人々の、数千年にわたる探究の結果なのだ。たとえその結果のひとつが核であり、原発であったとしても、わたしたちはやはり見えないものを見ることを放棄するわけにはいかない。レントゲンやキュリー夫妻も含め、人類が気の遠くなるほど長いあいだ営々と重ねてきた努力が、二十一世紀のある日の破局のためだったと、断末魔のなかで結論しないために。
 
5月7日(月)【薄っぺらな平穏】
さんのツイート:( (VIDEO)
http://enenews.com/mayor-i%e2%80%99m-losing-my-hair-and-have-nosebleed-everyday-i-asked-for-blood-test-at-a-hospital-in-tokyo-because-i%e2%80%99m-exposed-but-they-refused-it-video下にスクロールして山谷えり子議員の発言をごらんください) 重要!ビデオ.双葉町長,"私は脱毛し鼻の出血が毎日ある.私は被爆しているので,東京の病院で血液検査をしたいと尋ねたが,彼らはそれを拒否した!日本政府は今でも、SPEEDIのデータを、双葉町に与えない.さらに何も連絡も無い!
さんのツイート:
 こんな薄っぺらな平穏がいつまでも続く訳がない。暮らしを失った人、健康を失った人、希望を失った人の悲しみと怒りが、いつか目に見える形になる。この国の土台となる国民の心と身体はもうボロボロだ…。そう、4号機建屋こそが、今の日本自体の姿なんだ…。
・ドイツZDF フクシマ-最悪事故の陰に潜む真実 Part1/4  
http://www.youtube.com/watch?v=VjY_55gd9wU&feature=relmfu(YOUTUBE):
 彼(ヴォルフガング・クロンプ氏)は、日本のエネルギー政策が無責任だと語る。「最大の過ちはなによりも、これほど地震の多い国に原発を建設したということです。このような土地に原発はまったく不適です。どのような地震にも耐えられる安全な設計というのがあるとは思えない。ここまでは事故が起きても我慢できるとか、ここまではいいことにするなどの計算をするということがそもそもおかしい。実際に核の事故が起きてしまえば、帳消しにできない足跡をとてつもなく長い時間にわたって残すことになってしまう。そしてそれは決して許されないことだからです」

5月5日(土)【こどもの日】
  今日深夜、北海道泊原発が止まり、日本の稼働原発がようやくゼロになった。
  東京新聞の一面トップは、「原発ゼロ時代に挑む」。ふだんにも増して脱原発がらみの記事が目立った。一面中央、佐藤正明氏の7コマ漫画「そして誰もいなくなった」では、AKB48をもじったGNP(原発)54グループの最後のメンバー、泊原子さんがブーイングの中でステージから退場。
 「筆洗」では、星新一の「おーい でてこーい」が紹介されている。台風でやしろが吹き飛ばされた跡地の穴に「原子炉のカス」やら何でもかんでも捨てながら大都市を建設していたところ、ある日「おーい でてこーい」の声とともに、投げ捨てたすべてのものが回帰しはじめる。「筆洗」はこうしめくくられている。「この地震列島で原発に依存したまま、大量のごみを未来のこどもに残すことこそ集団自殺の道だろう。」
 社説はこうだ。「特別なこどもの日には、特別な緑の風を吹かせましょう。あらためて約束します。私たちは、みなさんの命と未来を脅かす原発への依存を反省し、持続可能で豊かな明日へ、迷いなく歩いていくと。」
 「迷いなく歩いていく。」 あたりまえの、いい社説だ。
 一年前の今ころ、あたりまえのことを言おうとしない他紙に業を煮やして購読紙を変えたのだった。
 守るべきは命であり、未来である。それはすべての論理、言説の究極の行き先である前に、それが始まるそもそもの起点であるずだ。さもなければ人はなぜ語るのか、語り得るのか、語る必要があるのか。

5月4日(金)【猫の住む日本語】
 日本語には猫にかかわるみごとな比喩表現が、こんなにあっていいのかと思うほどたくさんある。
 身体の器官や部位では「猫のひたい」、「猫っ毛」、「猫の目」(さいとうたかおのゴルゴ13は、猫の目を時計がわりに使って依頼された狙撃に成功していたが、いくらなんでも……?) 「猫舌」も舌をまく秀逸さだが、「猫背」とともに比喩だったことさえ忘れかけている。
 猫の習性についは「猫ばば」と「猫かぶり」がある。どちらもよほどじっくり猫を観察していないと出てこない比喩だが、これが流通したということは、そのころ(どのころだろう?)の日本には、これにすぐピンとくるほど、猫をよく見、よく知っている人が大勢いたということなのだろう。
 猫の好物についても「猫にカツオブシ」、「猫にイワシ」、「猫にサンマ」と並んでおり、ひと昔前の家庭マンガの「泥棒猫」には欠かせないアイテムだった。猫にさえきらわれる魚は「猫またぎ」で、これも秀逸。
 相撲の「猫だまし」。この技を最初に知ったとき、絶対にだれかが、わざわざ猫の反応をためしてみたにきまっていると思った。「猫に小判」、これも結果はわかりきっているのに、日本のあちこちで、小判が手に入ったとき、暇にまかせて「ほうれ、小判じゃぞ」などとやってみた人がいるような気がする。「猫じゃらし」……もちろん! われらがご先祖さまには、暇人が山ほどいたのである。
 「猫に鏡」もたいていの猫好きはやってみたにちがいないし、もちろんわたしも飼う度にためしてみた。しかし、これだけは比喩にしようがない。たとえ私がいっしょに鏡に映っていても、猫は引き算もせず、鏡に映った猫が自分だとは認識せずに、鏡の後ろを見に行く。何回見せても、鏡を見てうれしがる「鏡像段階」はやはりやってこない。猫にはナルシシズムもフィクションもいらない。見られることを知らない目だ。
 「猫なで声」と「猫かわいがり」。これはもはや猫ではなく、猫馬鹿の習性についての比喩だけれど、そばで仲間はずれにされている者の嫉みや苦々しさもとりこみ、豊かなことこのうえない。
 「猫の手も借りたい」。はい、わかった、わかった。要するに、ご先祖たちは猫が好きだったのね。何の役にも立たなくても、あのほにょにょんとした手が、あのほにょにょんとした生き物が大好きだったのね。

・ 猫にルンバ:「お掃除ロボット「ルンバ」に乗るマンチカンのくるみちゃん」
         http://www.at-douga.com/?p=3305
・ 猫にピアノ: "NORA: Practice Makes Purr-fect" - Check the sequel too.
         http://www.youtube.com/watch?v=TZ860P4iTaM (YOUTUBE)


5月3日(木) 【「かわいそう」ということ】
 身のまわりの動物について「かわいそう」ということは、これまでずっと、なんとも具合の悪いことだった。それは人間が食べていかねばならないという大本を忘れた非現実的でめめしい、子どもっぽい感傷に過ぎず、犬猫の話ともなれば、「人間でも飢えている人や、もっと気の毒な人が大勢いるというのに」、なんとも許し難いぜいたくな、ひと昔前なら「ブルジョア的」でさえある感傷とされるのが落ちだった。しかもおまえだって動物の肉を食べているではないかといわれれば、ぐうの音も出ない。
 70年代のアメリカで広く読まれたロバート・ニュートン・ペックの「豚の死なない日」でも、少年はあんなに可愛がっていたピンキーを裏切り、殺すことによって「大人」になる。人間が食べていくためにはやむを得ない残酷を、やむを得ないこととして歯を食いしばって黙って受け入れるのが大人なのだと。
 しかし、本当に「やむを得ないこと」なのか? 全然「やむを得なく」などないのではないか? やめようと思えばやめられるのではないか? 今じわじわと増えつつある菜食者たち、肉食しながらも、祖先伝来の自己矛盾に苦しみながらも、歯を食いしばって黙りこむかわりに、大声で「かわいそう」と叫びはじめた人たち。子どもたちが動物を裏切り、殺すことによってではなく、困難でも、それを拒否することによって大人になるようになったとき、世界はこれまでとまるで違うものになっていることだろう。その革命には理論も説明もいらない。 

5月2日(水)【PETA:私の死のあかつきには】
 アメリカでベジタリアンやヴィーガンが増えているらしい。日本もTWITTERで見ているとやはり増えている感じがするし、ヴィーガン・レストランも出てきている。京都のレストランのHP((http://veganscafe.blogspot.jp/)には「心にも体にも優しいメニュー」があったが、主眼はやはり「心」のほうだろう。動物を殺さなくても食べていけるとき、それを殺して食べて、本当に心が痛まないのか。その肉を食べながら愛について、倫理道徳について語り得るのか。パンツをはいた変種を含む動物の生について、命について語り得るのか。疚しくはないのか?
 もちろんこれは今に始まった問題ではない。むしろ遠い遠い昔、そういう心の痛みが宗教や倫理道徳を生み出すひとつの原因になったように思われる。そして今わたしたちは、いくらでも動物を殺し、いくらでも肉を食べられる社会にあって、改めてその問題に直面している。人間がいくらかでもやさしくなりつつあるのか、それとも人間の残酷さが人間の耐えられる限界を越えてしまったのか。
 PETA(People for the Ethical Treatment of Animalsー動物の倫理的扱いを求める人々の会)のイングリッド・ニューカーク会長の「遺書」。
  「私の死のあかつきには
●私の肉を刻んでバーベキューにしてください。
人間であろうと動物であろうと肉は肉であり私たちに必要ではないと世界に知らせるために……
●私の眼球をとりだして環境保護団体の事務局に送ってください。
PETAは動物に毒を盛り、拷問にかける無用で残酷な実験をやめさせるまで
見張り続けることを覚えておいてもらうように……ノーマンテイラー訳」
http://catsanddogs75.blog136.fc2.com/blog-entry-171.html(「私に何の関係があるというのだ」ブログより)

5月1日(火)【動物の目】
 昨日紹介したブログに、殺された牛の目の写真が一枚あって、こう書いてあった。
ずっと目をあけて、見ています。見ています。何かを求めて。本当に息の尽きる、最期まで。この目が瞼をつぶっても浮かんできて消えません。」
 今日も何万、何十万、何百万、何千万頭もの牛が、こういう目をして、世界じゅうで殺されていくのだろう。死を知らず、わたしたちがことばを通して知っているありとあらゆることを知らず、そのかわりに、一切を、ことばを通す以前の一切を見ることのできる動物の目。その幾千万の目が、時計をもち、かばんをもち、ことばをもち、しかしもはや何ひとつ見えないわたしたちを、息のつきる最期まで見ている。 

4月30日(月)【全て殺されました】
 福島県「大熊町野上の役場が作った殺処分の為の柵の光景です。」
 ぬかるみの中で臓器が見える牛、亡くなってる牛,たてごが食い込んでいる牛
 (家畜おたすけ隊さんブログ)


4月29日(日)【神がいないとしても】
 人間が地獄を恐れなくなったとき、まわりの動物は一段と救いのないこの世の地獄に突き落とされた。その地獄は今も広がり続けて、この国を、この星を、おおいつくそうとしている。もしかしたら「神がいなければすべてが許される」と、いっとき思いこむ人はいるかもしれない。しかしたちまち知ってしまう。屠場へのトラックに乗せられて涙を流す牛、捕えられて恐怖で失禁する犬、狭い檻の中を一日じゅうぐるぐる回り、生きたまま毛皮をはがれ、固定器具につながれて痛みにうめき、あるいはうめくことさえできずに、自分がどのくらい高く跳べ、どのくらい早く野原を走れたのかも知らないまま、果てしなく殺されつづける動物たち。こういうことの一切を知らずに生きていくことは決してできないし、ほんのわずかなヒントだけですべてを想像しないわけにはいかない。わたしたちはたしかに充分に知っている。たとえ神がいないとしても、わたしたち自身がわたしたち自身を許すことができないことを。わたしたちはすでに自分の手で作った地獄にいる。充分に知らないのは、その地獄から、わたしたち自身の絶叫から、どうすればわたしたち自身を救い出せるのかということだけだ。

4月28日(土)【クマ牧場 】
・2人死亡事故のクマ牧場、5月中旬にも閉鎖へ:(読売)
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120426-OYT1T00021.htm?from=tw
 「県の事故前の調査などによると、クマの餌は、死亡した女性従業員2人が中心となって、1頭当たり残飯約10キロ・グラムと、リンゴ2キロ・グラムを1日おきに与えていた。」それでも熊たちは痩せて、病院の残飯の餌を奪い合っていたという。殺された6頭の残りの熊には、事故後、だれが餌をやっているのだろう。
・八幡平クマ牧場の問題に関するALIVEの見解:(地球生物会議ALIVEさんHP)
 http://www.alive-net.net/zoocheck/kumabokujou/kuma-hachimantai4.htm
 「クマ牧場については、管理能力のない経営者のみならず、飼養許可を定めた法律、許可を出してきた行政、クマの多頭飼育や不自然な飼い方に疑問を持たず、クマが物乞いをする姿などを見て楽しむ一般市民にも問題があると言えるでしょう。その意味では日本社会に突きつけられた責任問題ということもできます。」

4月27日(金)【むこう側】
 猫や犬が好きだし、牛も馬も豚も好きだ。相手に楽しく幸せであってほしいと願う気持ちを愛情と呼ぶとしたら、ライオンにも黒熊にも白熊にも鼠にも、ああいう毛の生えた温かい生きもののほとんどに愛情を感じる。(毛がなくても、温かくなくても、以前一度見たエメラルドグリーンの小さな毒蛇は息をのむほど愛らしかった。)それは無条件の、無償の、くもりのない、あられもない、おさえようにもおさえようもなく湧いてくる、もしかしたら美しいとさえいえる純粋な愛だ。そして私はそういう純度の愛を人間にはほとんど感じたことがない。生まれてほんの間もない赤ん坊にさえも。そう、赤ん坊は生まれるが早いがすでにこちら側にいる。私が魅かれてやまないのは赤ん坊のむこう側、むこう側そのものである生きものなのだ。私が生まれたとたんに追放された場、ここであるにもかかわらず二度と帰ることのできないあの永遠の今の場。絶望的な郷愁。私は私が私でなかったときにそうであったはずの、もはや取り返しのつかないなにかを絶望的に愛しているのにちがいない。

2012年4月26日(木)【それにしても】
 それにしてもどう続きを始めるか? せっかくページを新しくしたのだから、もう少し自由に書こう。一年前におずおずと始めたあのページで毎日続きを書くのがなんと窮屈だったことか。途中で変えればいいのに変えなかったのは、読んでくれる人への忠義だてというよりも(だれもそんな忠義は求めていない)、やはり一種の怠惰からだ。呼びかけの普通の文、それらしい文、まじめな文の気楽さと惰性。それは沈黙ではないにしても、本物の声ではない。
 このページは少なくとも、前日の文の口調と語りの場が自ずと作り上げる枠におかまいなく書いていくことにしよう。そうしないことにはやはり「わからない」。しかし、いったいどうなるのか。なにがわかるのか。

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